エジプト・アラブ共和国
جمهورية مصر العربية
エジプトの国旗 エジプトの国章
国旗 国章
国の標語:なし
国歌بلادي، بلادي، بلادي(アラビア語)
我が祖国
エジプトの位置
公用語 アラビア語
首都 カイロ
最大の都市 カイロ
政府
大統領 アブドルファッターフ・アッ=シーシー
首相英語版 ムスタファ・マドブーリーアラビア語版英語版
面積
総計 1,010,408km229位
水面積率 0.6%
人口
総計(2012年 9151万人(???位
人口密度 76人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2008年 8,965億[1]エジプト・ポンド (£)
GDP (MER)
合計(2008年 1,621億[1]ドル(49位
GDP (PPP)
合計(2008年4,426億[1]ドル(28位
1人あたり 5,898[1]ドル
独立
 - 日付
イギリスより
1922年2月28日
通貨 エジプト・ポンド (£) (EGP)
時間帯 UTC +2(DST:なし)
ISO 3166-1 EG / EGY
ccTLD .eg
国際電話番号 20

エジプト・アラブ共和国(エジプト・アラブきょうわこく、アラビア語: جمهورية مصر العربية‎)、通称エジプトは、中東アラブ世界)および北アフリカにある共和国首都カイロ

アフリカ大陸では北東端に位置し、西にリビア、南にスーダン、北東のシナイ半島ではイスラエルガザ地区国境を接する。北は地中海、東は紅海に面している。南北に流れるナイル川河谷デルタ地帯(ナイル・デルタ)のほかは、国土の大部分が砂漠である。ナイル河口の東に地中海と紅海を結ぶスエズ運河がある。

国号

正式名称はアラビア語جمهورية مصر العربية (ラテン翻字: Ǧumhūrīyah Miṣr al-ʿarabīyah)。通称は مصر (標準語: Miṣr ミスル、エジプト方言ほか、口語アラビア語: [mɑsˤɾ] マスル)。コプト語: Ⲭⲏⲙⲓ (Khemi ケーミ)。

アラビア語の名称ミスルは、古代からセム語でこの地を指した名称である。なお、セム語の一派であるヘブライ語では、双数形ミスライム (מצרים, ミツライム) となる。

公式の英語表記は Arab Republic of Egypt。通称 Egypt [ˈiːdʒɨpt]。形容詞はEgyptian [ɨˈdʒɪpʃən]。エジプトの呼称は、古代エジプト語のフート・カア・プタハ(プタハ神の魂の神殿)から転じてこの地を指すようになったギリシャ語の単語である、ギリシャ神話アイギュプトスにちなむ。

日本語の表記はエジプト・アラブ共和国。通称エジプト漢字では、埃及と表記し、と略す。この漢字表記は、漢文がそのまま日本語や中国語などに輸入されたものである。

歴史

古代エジプト

「エジプトはナイルの賜物」という古代ギリシア歴史家ヘロドトスの言葉で有名なように、エジプトは豊かなナイル川デルタに支えられ古代エジプト文明を発展させてきた。エジプト人は紀元前3000年頃には早くも中央集権国家を形成し、ピラミッド王家の谷ヒエログリフなどを通じて世界的によく知られている高度な文明を発達させた。

アケメネス朝ペルシア

3000年にわたる諸王朝の盛衰の末、紀元前525年アケメネス朝ペルシアに支配された。

ヘレニズム文化

紀元前332年には、アレクサンドロス大王に征服された。その後ギリシア系プトレマイオス朝が成立し、ヘレニズム文化の中心の一つとして栄えた。

ローマ帝国

プトレマイオス朝は紀元前30年に滅ぼされ、エジプトはローマ帝国属州となりアエギュプトゥスと呼ばれた。ローマ帝国の統治下ではキリスト教が広まり、コプト教会が生まれた。ローマ帝国の分割後は東ローマ帝国に属し、豊かな穀物生産でその繁栄を支えた。

イスラム王朝

7世紀にイスラム化639年イスラム帝国将軍アムル・イブン・アル=アースによって征服され、ウマイヤ朝およびアッバース朝の一部となった。アッバース朝の支配が衰えると、そのエジプト総督から自立したトゥールーン朝イフシード朝の短い支配を経て、969年に現在のチュニジアで興ったファーティマ朝によって征服された。これ以来、アイユーブ朝マムルーク朝とエジプトを本拠地としてシリア地方まで版図に組み入れたイスラム王朝が500年以上に渡って続く。特に250年間続いたマムルーク朝の下で中央アジアカフカスなどアラブ世界の外からやってきたマムルーク(奴隷軍人)による支配体制が確立した。

オスマン帝国

1517年に、マムルーク朝を滅ぼしてエジプトを属州としたオスマン帝国の下でもマムルーク支配は温存された(エジプト・エヤレト英語版)。

ムハンマド・アリー朝

1798年フランスナポレオン・ボナパルトによるエジプト遠征をきっかけにエジプトは近代国家形成の時代を迎える。フランス軍撤退後、混乱を収拾して権力を掌握したのはオスマン帝国が派遣したアルバニア人部隊の隊長としてエジプトにやってきた軍人、ムハンマド・アリーであった。彼は実力によってエジプト総督に就任すると、マムルークを打倒して総督による中央集権化を打ち立て、経済軍事の近代化を進めて、エジプトをオスマン帝国から半ば独立させることに成功。アルバニア系ムハンマド・アリー家による世襲政権を打ち立てた(ムハンマド・アリー朝)。しかし、当時の世界に勢力を広げたヨーロッパ列強はエジプトの独立を認めず、また、ムハンマド・アリー朝の急速な近代化政策による社会矛盾は結局、エジプトを列強に経済的に従属させることになった。

イギリスの進出

ムハンマド・アリーは綿花を主体とする農産物専売制をとっていたが、1838年に宗主オスマン帝国がイギリスと自由貿易協定を結んだ。ムハンマド・アリーが1845年に三角州の堰堤を着工。死後に専売制が崩壊し、また堰堤の工期も延びて3回も支配者の交代を経た1861年ようやく一応の完工をみた。1858年末には国庫債券を発行しなければならないほどエジプト財政は窮迫していた。スエズ運河会社に払い込む出資金の不足分は、シャルル・ラフィット(Charles Laffitte)と割引銀行(現BNPパリバ)から借りて、国庫債券で返済することにした。イスマーイール・パシャが出資の継続を認めた時、フランスのナポレオン3世の裁定により契約責任を問われ、違約金が自転車操業に拍車をかけた。1869年にエジプトはフランスとともにスエズ運河を開通させた。この前後(1862-73年)に8回も外債が起債され、額面も次第に巨額となっていた。エジプトはやむなくスエズ運河会社持分を398万ポンドでイギリスに売却したが、1876年4月にデフォルトした。[2]

英仏が負債の償還をめぐって争った。エジプトの蔵相は追放された。イタリアオーストリアも交えた負債委員会が組織された。二回目のリスケジュールでイスマーイール一族の直轄地が全て移管された。しかし土地税収が滞った。[3]

1882年アフマド・オラービーが中心となって起きた反英運動(ウラービー革命)がイギリスによって武力鎮圧された。エジプトはイギリスの保護国となる。結果として、政府の教育支出が大幅カットされるなどした。1914年には、第一次世界大戦によってイギリスがエジプトの名目上の宗主国であるオスマン帝国と開戦したため、エジプトはオスマン帝国の宗主権から切り離された。さらにサアド・ザグルールの逮捕・国外追放によって反英独立運動たる1919年エジプト革命が勃発し、英国より主政の国として独立した。

独立・エジプト王国

第一次大戦後の1922年2月28日エジプト王国が成立し、翌年イギリスはその独立を認めたが、その後もイギリスの間接的な支配体制は続いた。

エジプト王国は立憲君主制を布いて議会を設置し、緩やかな近代化を目指した。第二次世界大戦では、枢軸国軍がイタリア領リビアから侵攻したが、英軍が撃退した(北アフリカ戦線)。第二次世界大戦前後からパレスチナ問題の深刻化や、1948年から1949年パレスチナ戦争第一次中東戦争)でのイスラエルへの敗北、経済状況の悪化、ムスリム同胞団など政治のイスラム化(イスラム主義)を唱える社会勢力の台頭によって次第に動揺していった。

エジプト共和国

この状況を受けて1952年、軍内部の秘密組織自由将校団クーデターを起こし、国王ファールーク1世を亡命に追い込み、ムハンマド・アリー朝を打倒(エジプト革命[4])。生後わずか半年のフアード2世を即位させ、自由将校団団長のムハンマド・ナギーブが首相に就任して権力を掌握した。さらに翌年の1953年、国王を廃位して共和政へと移行、ナギーブが首相を兼務したまま初代大統領となり、エジプト共和国が成立した。

ナーセル政権

ガマール・アブドゥル=ナーセル第二次中東戦争に勝利し、スエズ運河を国有化した。ナーセルの下でエジプトは汎アラブ主義の中心となった。

1956年、第2代大統領に就任したガマール・アブドゥル=ナーセルのもとでエジプトは冷戦下での中立外交と汎アラブ主義(アラブ民族主義)を柱とする独自の政策を進め、第三世界アラブ諸国の雄として台頭する。同年にエジプトはスエズ運河国有化を断行し、これによって勃発した第二次中東戦争(スエズ戦争)で政治的に勝利を収めた。1958年にはシリアと連合してアラブ連合共和国を成立させた。しかし1961年にはシリアが連合から脱退し、国家連合としてのアラブ連合共和国はわずか3年で事実上崩壊した。さらに1967年第三次中東戦争は惨敗に終わり、これによってナーセルの権威は求心力を失った。

サーダート政権

1970年に急死したナーセルの後任となったアンワル・アッ=サーダートは、ソビエト連邦に代えてアメリカ合衆国など西側諸国に接近。社会主義的経済政策の転換、イスラエルとの融和など、ナーセル体制の切り替えを進めた。1971年には、国家連合崩壊後もエジプトの国号として使用されてきた「アラブ連合共和国」の国号を捨ててエジプト・アラブ共和国に改称した。また、サーダートは、経済の開放などに舵を切る上で、左派に対抗させるべくイスラーム主義勢力を一部容認した。しかし、サーダートは、イスラエルとの和平を実現させたことの反発を買い、1981年イスラム過激派ジハード団によって暗殺された。エジプトはオイルショックによって経済改革を漸進させていた。

ムバーラク政権

アラブの春で失脚するまで30年以上にわたり長期政権を維持したホスニー・ムバーラク

イラククウェート侵攻はエジプトの国際収支を悪化させた。サーダートに代わって副大統領から大統領に昇格したホスニー・ムバーラクは、対米協調外交を進める一方、開発独裁的な政権を20年以上にわたって維持した。

ムバラク政権は1990年12月に「1000日計画」と称する経済改革案を発表した。クウェート解放を目指す湾岸戦争では多国籍軍へ2万人を派兵した。これにより約130億ドルも対外債務を減らすという外交成果を得た。累積債務は500億ドル規模であった。軍事貢献により帳消しとなった債務は、クウェート、サウジアラビアに対するものと、さらに対米軍事債務67億ドルであった。1991年5月には国際通貨基金のスタンドバイクレジットおよび世界銀行の構造調整借款(SAL)が供与され、パリクラブにおいて200億ドルの債務削減が合意された。エジプト経済の構造調整で画期的だったのは、ドル・ペッグによる為替レート一本化であった。[5]

海外の機関投資家に有利な条件が整えられていった。イスラム主義運動は厳しく弾圧された。喜捨の精神は失われていった。1997年にはイスラム集団によるルクソール事件が発生している。1999年にイスラム集団は武装闘争放棄を宣言し、近年、観光客を狙った事件は起こっていない。しかし、ムバーラクが大統領就任と同時に発令した非常事態法は、彼が追放されるまで30年以上にわたって継続された[6]

2002年6月、エジプト政府は15億ドルのユーロ債を起債したが、2002-3年に為替差損を被り、対外債務を増加させた[7]

エジプト革命

チュニジアジャスミン革命に端を発した近隣諸国の民主化運動がエジプトにおいても波及し、2011年1月、30年以上に渡って独裁体制を敷いてきたムバーラク大統領の辞任を求める大規模なデモが発生した。同2月には大統領支持派によるデモも発生して騒乱となり、国内主要都市において大混乱をまねいた。大統領辞任を求める声は日に日に高まり、2月11日、ムバーラクは大統領を辞任し、全権がエジプト軍最高評議会に委譲された。同年12月7日にはカマール・ガンズーリ英語版を暫定首相とする政権が発足した。その後2011年12月から2012年1月にかけて人民議会選挙が、また2012年5月から6月にかけて大統領選挙が実施されムハンマド・ムルシーが当選し、同年6月30日の大統領に就任したが、人民議会は大統領選挙決選投票直前に、選挙法が違憲との理由で裁判所から解散命令を出されており、立法権は軍最高評議会が有することとなった。

ムルシー政権

2012年11月以降、新憲法の制定などをめぐって反政府デモや暴動が頻発した(2012年-13年エジプト抗議運動英語版)。ムルシー政権は、政権への不満が大規模な暴動に発展するにつれて、当初の警察改革を進める代わりに既存の組織を温存する方向に転換。ムハンマド・イブラヒームアラビア語版が内相に就任した2013年1月以降、治安部隊による政治家やデモ隊への攻撃が激化。1月末には当局との衝突でデモ参加者など40人以上が死亡したが、治安部隊への調査や処罰は行われていない[8]。イブラヒーム内相は、国民が望むならば辞任する用意がある、と2月に述べている[9]。下落するエジプト・ポンドがとめどなくUSドルに交換され、外貨準備を減らすような混乱が同月10日のロイター通信で報じられている。下落は1月から起きており、同月にはドバイのエミレーツNBD(Emirates NBD)がBNPパリバのエジプト支店を完全買収した。オイルマネーがエジプト経済を我が物にする社会現象が起こっていた。さらに『フィナンシャル・タイムズ』が1月19日に報じたのは、エチオピアがナイルの川上に48億ドルの予算をかけてダムを造るという計画であった。混乱中のエジプトが水紛争で負ければ大きな水ストレスが生じるだろうと予測された。

2013年4月、エジプト中央銀行リビアから20億ドルの預金を得た。リビア側が利害を説明したところによると、リビアはエジプト株を100億ドル近く保有しているという。リビアは世界金融危機の時から欧米のメガバンクと癒着を疑われている。

ムルシー政権は発足後約1年後の2013年7月3日、軍部によるクーデターによって終焉を迎えた[10]。8月下旬にムバラクが釈放され、国内銀行が平常運転に復帰した。8月30日のCNNでは、中国石油化工が米国ヒューストンのアパッチ(Apache Corporation)とエジプト内油田事業を提携したことが報じられた。10月下旬、アラブ首長国連邦がエジプトに50億ドルの支援を申し出た。エジプトエリートの売国とソブリン危機は翌年4月まで深化していった。

なお、イブラヒームは、クーデター後に成立したベブラーウィー暫定内閣でも続投している。

アッ=シーシー政権

2014年5月、エジプト出身のエコノミストであるシャフィク(Nemat Shafik)がイングランド銀行副総裁に指名された。彼女は世界銀行でキャリアを積んでから、世界金融危機以降に欧米で国際金融機関に関する包括的な調査にあたった。

同5月26〜28日に行われた大統領選挙に当選したアブドルファッターフ・アッ=シーシーが6月8日、大統領に就任し[11]、8月5日からは新スエズ運河の建設など大規模なプロジェクトを推し進めた。2015年3月13日には、カイロの東側に向こう5─7年で、450億ドルを投じて新しい行政首都の建設も計画していることを明らかにした[12]。行政と経済の中心となる新首都はカイロと紅海の間に建設され、広さは約700平方キロメートルで、米ニューヨークマンハッタンのおよそ12倍の面積の予定であり[13]、大統領府などエジプトの行政を担う地区は当初覚書を交わしたアラブ首長国連邦エマール・プロパティーズ中国中国建築股份有限公司との破談はあったものの2016年4月に地元企業によって工事を開始し[14]、代わりにエジプト政府がピラミッド[15]に匹敵する一大事業のランドマークと位置づけているアフリカで最も高いビルも建設予定である経済を担う中央業務地区を中国の銀行が8割超融資して中国建築が請け負うこととなり[16][17][18]2018年3月18日に着工式が行われた[19]

アラブ首長国連邦(UAE)や中国と破談した背景には通貨不安が存在する。2016年11月3日、エジプト中央銀行が変動相場制を採用すると発表した。エジプト・ポンドが売られるのを革命の影響だけで片付けるには、この不安は長引きすぎている。同行は6日後、国際金融機関から20億ドルのレポ借入を始めた。4月に国際通貨基金からも120億ドルを借りている。エジプトは経済主権を失っている。ガーディアンが10月4日に報じたところでは、国際金融機関のバークレイズがエジプト事業をワファバンクに売却した。

2017年末、政府が世界銀行に対し、エチオピアのダム事業を差し止めるように要請した。世銀は5月にエジプトへ10億ドルを追加融資しており、エジプトは厳しい立場にある。翌2018年1月中旬にエチオピアとの水紛争が妥協に至った。5月末にエジプトの対外債務累積額は829億ドルであった。9月、ムバラクの息子ら二人(Gamal and Alaa)がエジプトの株価を操作した疑いで逮捕された。

政治

政体

共和制

大統領

国家元首の大統領は、立法・行政・司法の三権において大きな権限を有する。また国軍(エジプト軍)の最高司令官でもある。大統領の選出は、直接選挙による。任期は4年で、三選禁止となった[20]。最高大統領選挙委員会(The Supreme Presidential Election Commission, SPEC)委員長は、最高憲法裁判所長官が兼任していたが、現在は副長官がその任を負う。

第2代大統領ガマール・アブドゥル=ナーセル以来、事実上の終身制が慣例で、第4代大統領ホスニー・ムバーラク1981年の就任以来、約30年にわたって独裁体制を築いた。ムバーラクの親米・親イスラエル路線が欧米諸国によって評価されたために、独裁が見逃されてきた面がある。当時は任期6年、多選可。議会が候補者を指名し、国民は信任投票を行っていた。ただし、2005年は複数候補者による大統領選挙が実施された。

2011年9月に大統領選が予定されていたが、2011年1月に騒乱状態となり、2月11日、ムバーラクは国民の突き上げを受ける形で辞任した。翌日より国防大臣軍最高評議会議長のムハンマド・フセイン・タンターウィーが元首代行を務め、それは2012年エジプト大統領選挙の当選者ムハンマド・ムルシー6月30日に大統領に就任するまで続いた。2011年3月19日憲法改正に関する国民投票が行われ、承認された[21][22]

しかしムルシー政権発足からわずか1年後の2013年、軍事クーデターが勃発。ムルシーは解任され、エジプトは再び軍による統治へと逆戻りした。2014年1月に再び憲法が修正され[21]、同年5月の大統領選挙を経て再び民政へと復帰した。

議会

議会は、一院制人民議会(マジュリス・アッ=シャアブ)。全508議席で、498議席は公選、10議席は大統領指名枠[23]。任期5年。これとは別に、諮問評議会(シューラ)が1980年設置されたが、立法権は有さない大統領の諮問機関である[24]。全270議席で、180議席が公選、90議席が大統領指名枠。

選挙

2011年11月21日イサーム・シャラフ暫定内閣は、デモと中央治安部隊の衝突で多数の死者が出たことの責任を取り軍最高評議会へ辞表を提出した。軍最高評議会議長タンターウィーは11月22日テレビで演説し、「28日からの人民議会選挙を予定通り実施し、次期大統領選挙を2012年6月末までに実施する」と表明した[25][26][27]。 人民議会選挙は2011年11月28日から2012年1月までに、行政区ごとに3回に分けて、また、投票日を1日で終わりにせず2日間をとり、大勢の投票での混乱を緩和し実施、諮問評議会選挙も3月11日までに実施された。また5月23日24日大統領選挙の投票が実施された。

しかし、6月14日に最高憲法裁判所が出した「現行の議会選挙法は違憲で無効」(3分の1の議員について当選を無効と認定)との判決を受け[28][29]16日までにタンターウィー議長は人民議会解散を命じた[30]。大統領選挙の決選投票は6月16日と17日に実施され、イスラム主義系のムハンマド・ムルシーが当選した。

政党

2011年3月28に日改正政党法が公表されて、エジプトでは宗教を基盤とした政党が禁止された。そのため、ムスリム同胞団(事実上の最大野党であった)などは非合法化され、初めての選挙(人民議会選挙)では、ムスリム同胞団を母体とする自由公正党アラビア語: حزب الحرية والعدالة‎ - Ḥizb Al-Ḥurriya Wal-’Adala, : Freedom and Justice Party)が結成された。また、ヌール党(サラフィー主義、イスラーム保守派)、新ワフド党(エジプト最古の政党)、政党連合エジプト・ブロック英語版(含む自由エジプト人党(世俗派)、エジプト社会民主党(中道左派)、国民進歩統一党(左派))、ワサト党政党連合革命継続英語版公正党英語版アラビア語: حزب العدل‎ - Hizb ElAdl, : Justice Party、今回の革命の中心を担った青年活動家による政党)など、全部で50以上の政党が参加していた[31][32]

政府