スレブレニツァの虐殺
Srebrenica2007.jpg
2007年に行われた465人のボシュニャク人の埋葬[1]
場所 ボスニア・ヘルツェゴビナの旗 ボスニア・ヘルツェゴビナスレブレニツァ
座標 北緯44度06分 東経19度18分 / 北緯44.100度 東経19.300度 / 44.100; 19.300座標: 北緯44度06分 東経19度18分 / 北緯44.100度 東経19.300度 / 44.100; 19.300
日付 1995年7月13日 - 7月22日
攻撃手段 組織的に行われたジェノサイド
死亡者 8000人以上
犯人 スルプスカ共和国の旗 スルプスカ共和国軍サソリ
容疑者 ラトコ・ムラディッチラドヴァン・カラジッチなど
防御者 ボスニア・ヘルツェゴビナの旗 ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争
13歳の少年の墓石(2007年7月11日)
ボスニア・ヘルツェゴビナにおけるスレブレニツァの位置

スレブレニツァの虐殺[2](スレブレニツァのぎゃくさつ、セルビア語: Масакр у Сребренициボスニア語: Masakr u Srebrenici)は、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争中にボスニア・ヘルツェゴビナスレブレニツァ1995年7月に発生した大量虐殺事件である。ラトコ・ムラディッチに率いられたスルプスカ共和国軍Vojska Republike Srpske; VRS)によって推計8000人のボシュニャク人が殺害された[3][4][5][6][7]スレブレニツァ・ジェノサイドГеноцид у СребренициGenocid u Srebrenici)ともいう[8]。この時、スルプスカ共和国軍に加えて、クライナ・セルビア人共和国を拠点とする準軍事組織「サソリ」(Škorpioni)が虐殺に加担していた[9][10][11][12][13][14]

ボスニア・ヘルツェゴビナの連邦行方不明者委員会による、スレブレニツァで殺害されるか行方不明となった人々の一覧には、8,373人の名前が掲載されている[15]。2008年12月までの段階で、およそ5800人の遺体がDNA調査によって身元特定され、3,215人がポトチャリスレブレニツァ虐殺記念館にて埋葬された[16][17][18]

なお、本項では、ボスニア・ヘルツェゴビナにおいて「ムスリム人」が「ボシュニャク人」と言い換えられる前の歴史的な記述についても、断り無く「ボシュニャク人」の呼称を使用する。

概要

紛争に至るまで

ボスニア・ヘルツェゴビナは1992年までユーゴスラビアの連邦構成国であり、宗教の異なるボシュニャク人セルビア人クロアチア人の3民族が人口比率の上で拮抗していた[19]1990年ユーゴスラビアが民主化され、複数政党制が導入されると、その構成国であったボスニア・ヘルツェゴビナではそれまで禁じられていた民族主義勢力が選挙で勝利を収め[3][20][21]ボシュニャク人アリヤ・イゼトベゴヴィッチが大統領に選出された。当時のセルビアはユーゴスラビアの一部であった一方、クロアチアは既に独立を果たしており、ボスニア・ヘルツェゴビナでもボシュニャク人とクロアチア人は独立を望んでいた。1992年には独立の可否を問う住民投票の結果を受けてボスニア・ヘルツェゴビナは独立を宣言した。これに対して、数の上で最大となるボシュニャク人による支配を嫌い、クロアチア人とセルビア人の民族主義者はボスニア・ヘルツェゴビナの中央政府を去り、ボスニア・ヘルツェゴビナ国内にそれぞれ民族独自の共同体ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国およびスルプスカ共和国を設立し、両者とボスニア・ヘルツェゴビナ中央政府の3者によるボスニア・ヘルツェゴビナ紛争へと発展した。

東部ボスニア地方での紛争の背景

ボスニア・ヘルツェゴビナにおいて、セルビア人が多数を占めていたのはボスニア・ヘルツェゴビナの国土の北部に位置するバニャ・ルカを中心とする北部ボスニア地方(ボサンスカ・クライナ)、および国土の最南端に位置するヘルツェゴビナ南東部であった。そして、サラエヴォより東のボスニア・ヘルツェゴビナ東部の、セルビアとの国境であるドリナ川西岸の東部ボスニア地方では、多くの地域でボシュニャク人が多数である一方、セルビア人も少なからざる人口比率を持っていた。紛争の初期の段階では、セルビア人勢力の支配地域はボスニア・ヘルツェゴビナの国土の南と北に地理的に分断され、互いに連続ではなかった。また東部ボスニア地方ではボシュニャク人主導のボスニア・ヘルツェゴビナ政府の支配地域と、セルビア人勢力(スルプスカ共和国)の支配地域が複雑に入り組んでいた。

第54回国際連合総会でなされたスレブレニツァの虐殺に関する報告では、東部ボスニア地方でのセルビア人勢力の主目的を、「地理的に連続し民族的に純粋な領土をドリナ川に沿って確保し、この領域で戦闘に従事する兵士を解放して他の地域へと振り向けること」であったとしている[22]

事件に至るまで

セルビア人勢力は、南北のセルビア人地域をつなぎ、地理的に連続で民族的に純粋な領土を確保する目的で[23]東部ボスニアでの戦闘を優位に進めた。そして、フォチャズヴォルニクツェルスカなどでボシュニャク人住民の殺害や強制追放を繰り返した[24]1993年頃にはこれらの地域の多くがセルビア人勢力の支配下となり、ボシュニャク人は一掃された。ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍(Armija Republike Bosne i Hercegovine; ARBiH)に守られたジェパおよびスレブレニツァには周辺地域から逃れてきた多くのボシュニャク人が流れ込み、四方をセルビア人勢力に包囲され、孤立していた[3][20]。1993年4月、国際連合はスレブレニツァを「安全地帯」に指定し、攻撃を禁じた[25][26][27][28][29]国際連合保護軍がスレブレニツァに送られたものの、その数は少数に留まった。その後も、スレブレニツァへの物資の搬入はセルビア人勢力の妨害により困難となり、武器、水、食料、その他あらゆるものが不足する状況となった。1995年7月までには、包囲されたスレブレニツァでは市民も国連軍も困窮し、市民のなかには餓死者も出るようになっていた[30]

虐殺事件

1995年7月11日ごろから、セルビア人勢力はスレブレニツァに侵入をはじめ、ついに制圧した[4][26]。ジェノサイドに先立って、国際連合はスレブレニツァを国連が保護する「安全地帯」に指定し、200人[31]の武装したオランダ軍の国際連合平和維持活動隊がいたが、物資の不足したわずか400人の国連軍は全く無力であり、セルビア人勢力による即決処刑や強姦、破壊が繰り返された[20][27][28][29][32][33]。その後に残された市民は男性と女性に分けられ、女性はボスニア政府側に引き渡された。男性は数箇所に分けられて拘留され、そのほとんどが、セルビア人勢力によって、7月13日から7月22日ごろにかけて、組織的、計画的に、順次殺害されていった。

殺害されたものの大半は成人あるいは十代の男性であったが、それに満たない子どもや女性、老人もまた殺害されている[4][34][35][36]。ボスニア・ヘルツェゴビナの連邦行方不明者委員会による、スレブレニツァで殺害されるか行方の分からない人々の一覧には、8,373人の名前が掲載されている[15]

事件後の経過: ジェノサイドとしての認定

スレブレニツァの虐殺は第二次世界大戦以降、ヨーロッパで最大の大量虐殺である[37]2004年ハーグにある旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(ICTY)での「検察官対クルスティッチ(Prosecutor v. Krstić)」の裁判において、満場一致のもと、スレブレニツァの虐殺はジェノサイドであると認定された[20][38][39]。裁判長テオドル・メロン(Theodor Meron)はその声明において、判決文から以下を含む部分を引用した。

ボスニア・ムスリムボシュニャク人)の一部を消し去ることを目指し、ボスニアのセルビア人部隊はジェノサイドを犯した。彼らは、ボスニア・ムスリム一般を象徴する存在であった、スレブレニツァに住む4万人のボスニア・ムスリムの絶滅を目標とした。全てのムスリムの男性捕虜から、軍人も民間人も、老いも若きも別なく、所持品や身分証明書を奪い、意図的かつ組織的に、単にその身元(アイデンティティ)だけを根拠に殺害した。 — 原文英語。翻訳および括弧内補記は引用者。[40]

2007年2月国際司法裁判所(ICJ)は、スレブレニツァの虐殺がジェノサイドであったとするICTYの判断を確認し[39][41]、次のとおり言明した。

スレブレニツァで行われた、条約(ジェノサイド条約)第II条(a)および(b)に該当する行為は、ボスニア・ヘルツェゴビナのムスリム人集団自体を一定程度に破壊する明確な目的をもって実行されたと、裁判所は結論する。従ってこれらの行為は、1995年7月13日前後以降にスレブレニツァおよびその周辺にてスルプスカ共和国軍の構成員によって行われたジェノサイド行為である(と結論する)。 — 原文英語。翻訳および括弧内補記は引用者。[42]

声明はまた、セルビアはこのジェノサイドを阻止するために可能な限りの手段を尽くさなかったこと、セルビアがICTYに全面的に協力する必要があること、セルビアはICTYにジェノサイドその他の容疑で訴追されている人物をハーグへと送らなければならないこと[43]、ICTYから逃亡中の人物が依然多数であること、それらがスルプスカ共和国セルビアの支配領域の中に潜伏していることにも言明した[44]

関連年表

時期 出来事
1974年 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の地方分権化が強化される憲法改正。セルビア・クロアチア語を話すムスリムが「ムスリム人」の呼称で独自の民族と認められる。
1990年 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国で複数政党制が認められる。ボスニア・ヘルツェゴビナで行われた初の複数政党制による選挙では、各民族による民族主義の政党が躍進。ボシュニャク人(ムスリム人)のアリヤ・イゼトベゴヴィッチが大統領に就任する。
1991年6月25日 クロアチアおよびスロベニアがユーゴスラビアからの独立を宣言。それぞれ独立戦争に入る。
1991年10月24日 ボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人議会が設立を宣言。
1991年11月18日 ボスニア・ヘルツェゴビナ・クロアチア人共同体が設立を宣言。
1992年1月7日 ボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人議会は、ボスニア・ヘルツェゴビナ領内にスルプスカ共和国の設立を宣言。
1992年2月29日 ボスニア・ヘルツェゴビナの独立を問う住民投票が行われる。ほぼ全てのセルビア人が投票をボイコットし、投票率67%で、99.43%の賛成となった。
1992年3月1日 ボスニア・ヘルツェゴビナ議会は独立を採択。セルビア人は欠席。
同上 セルビア人の将軍がサラエヴォにて殺害される。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で最初の死者。
1992年3月 ボスニア東部でセルビア人とボシュニャク人の間の戦闘が始まる。
1992年3月18日 最初の和平案であるリスボン合意が署名される。その後2週間ほどして、アリヤ・イゼトベゴヴィッチが合意を破棄。
1992年4月7日 ボスニア東部でセルビア人勢力によるボシュニャク人に対する大量殺害・フォチャ虐殺が始まる。
1992年4月8日 ヘルツェグ=ボスノ・クロアチア人共同体はクロアチア防衛評議会(HVO)を設立。
1992年4月23日 ボスニア北部でセルビア人勢力によるボシュニャク人に対する大量殺害・プリイェドル虐殺が始まる。
1992年5月12日 ユーゴスラビア人民軍が公式にボスニア・ヘルツェゴビナから撤退。
同上 スルプスカ共和国はスルプスカ共和国軍(VRS)設立。
1992年5月 ボスニア東部の大部分はセルビア人の支配下となり、スレブレニツァおよびジェパが孤立状態となる。
1992年5月19日 ボスニア東部でセルビア人勢力によるボシュニャク人に対する大量殺害・ヴィシェグラード虐殺が始まる。
1993年1月 2番目の和平案であるヴァンス=オーウェン案が提示される。
1993年3月 国際連合保護軍のフランス人将軍フィリップ・モリヨンがスレブレニツァを訪れる。
1993年4月16日 国際連合安全保障理事会がスレブレニツァを安全地帯に指定。
1993年6月 2番目の和平案であるヴァンス=オーウェン案がセルビア人勢力によって拒絶される。
1994年2月23日 クロアチア人勢力とボスニア・ヘルツェゴビナ中央政府の間で停戦合意が結ばれる。
1994年3月 クロアチア人勢力とボスニア・ヘルツェゴビナ中央政府の間で和平合意・ワシントン合意が結ばれ、両者は統合されボスニア・ヘルツェゴビナ連邦となる。
1995年3月 セルビア人勢力のトップに立つスルプスカ共和国の大統領ラドヴァン・カラジッチは、スレブレニツァに対する長期戦略に関して「命令書7号」を発行。
1995年7月6日 国連軍のオランダ部隊がスルプスカ共和国軍から攻撃を受ける。スルプスカ共和国軍が国連指定の「安全地帯」に侵入を始める。
1995年7月10日 スルプスカ共和国軍がスレブレニツァへの侵入を始める。
1995年7月11日 スレブレニツァの市民がポトチャリの国連施設に避難する。散発的な市民への殺害が始まる。
同上 ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍第28師団と一部の男性市民がトゥズラへ向けて脱出行軍を始める。
1995年7月12日 スルプスカ共和国軍が市民を男女別に分けて移送を始める。
1995年7月13日 大量殺害が開始される。
1995年7月16日 トゥズラに向けて出発した行軍隊の生存者、出発時のおよそ3分の1がトゥズラへ到達。
1995年7月19日 大量殺害の大部分(およそ8000人)が完了する。その後も逃走を続ける人々に対する追跡と殺害が続く。
1995年8月4日 クロアチアのセルビア人勢力・クライナ・セルビア人共和国に対するクロアチア共和国軍の攻撃・嵐作戦が開始される。
1995年8月30日 スルプスカ共和国に対するNATOによる大規模な空爆が始まる。
1995年11月21日 デイトン合意が結ばれる。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が公式的に終了する。
2001年7月 セルビア元大統領スロボダン・ミロシェヴィッチがICTYに引き渡される。
2004年11月10日 スルプスカ共和国が公式に虐殺の事実とその責任を認めて謝罪する。
2007年5月 スルプスカ共和国軍の将軍ズドラヴコ・トリミルが逮捕され、ICTYに引き渡される。
2008年7月 虐殺を指揮した事件当時のスルプスカ共和国の大統領ラドヴァン・カラジッチが逮捕され、ICTYに引き渡される。
2011年5月26日 スルプスカ共和国軍の参謀総長ラトコ・ムラディッチが逮捕され、ICTYに引き渡される。

背景

ボスニア東部での衝突

ボスニア・ヘルツェゴビナ1991年10月15日ユーゴスラビアからの独立を宣言した後、1992年4月6日欧州共同体(EC)から、その翌日にアメリカ合衆国から独立を承認された。この頃から、ボスニア・ヘルツェゴビナの主要3民族であるボシュニャク人クロアチア人セルビア人が、領土を巡って激しい争いを始めた。セルビアに近いボスニア東部では、主にボシュニャク人とセルビア人の間で激しい衝突が起こった。

1992年の民族浄化作戦

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の初期には、セルビア人の武装勢力がボシュニャク人の民間人をボスニア東部で攻撃していた。ボシュニャク人が多数派を占めていた中央ポドリニェ地方(スレブレニツァ周辺の地域)は、セルビア人が多数派を占めていた東部ヘルツェゴビナ地方と、ボスニア北部(ボスニア・クライナ)地方の間にあった。中央ポドリニェ地方は、セルビア人にとって戦略的に最も重要な場所であり、この地域なくして彼らによる新しい政治的実体・スルプスカ共和国の領土は完成し得ない[23]。そのため、彼らはボスニア東部と中央ポドリニェ地方においてボシュニャク人を民族浄化し、ボシュニャク人の住む地域を取り除くことを目指した。その様はICTYの裁定によれば次のようであった。

ひとたび町や村を手中に収めると、セルビア人武装勢力 - 軍、警察、準軍事組織、そして時としてセルビア人の村人たちまで - は同じパターンに従って行動した。ムスリム人の家屋や集合住宅は組織的に破壊されるか焼き払われ、ムスリム人の村人は集められるか捕らえられ、時にはこの過程で殴られたり殺害されたりした。男性と女性は分けられ、多くの男性は旧強制収容所に送られた。 — 原文英語。翻訳は引用者。[45]

スレブレニツァに隣接するブラトゥナツでは、ボシュニャク人は殺害されるかスレブレニツァへ脱出し、ボスニア・ヘルツェゴビナ政府の統計によれば、その過程で1156人が死亡した[46]。数千人のボシュニャク人がフォチャでのフォチャ虐殺や、ズヴォルニクツェルスカ、スナゴヴォ(Snagovo)にて殺害された[24]

スレブレニツァを巡る戦闘

この地域やその周辺の東部ボスニア、セルビアから来たセルビア人の軍や準軍事組織は、1992年の初めごろ、数週間に渡ってスレブレニツァを支配下におき、ボシュニャク人を殺害したり追放したりした。1992年5月、ボシュニャク人主体のボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍は、ナセル・オリッチNaser Orić)の指導の下、スレブレニツァの支配権を回復した。

その後、スレブレニツァは、ジェパツェルスカゴラジュデなどとともに、周囲をセルビア人勢力の支配地域に囲まれた飛び地となった。スレブレニツァを支配していたのは、ナセル・オリッチの率いるボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍第28師団であった。スレブレニツァ周辺のセルビア人勢力支配地域に対して、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍はスレブレニツァを拠点にして攻撃を加えた。1993年1月、ボスニア共和国軍の支配地域は、ボシュニャク人が支配する南の飛び地ジェパ、および西の飛び地ツェルスカと結ばれた[7]。この時、スレブレニツァを中心とするボシュニャク人支配の飛び地は最大版図の900平方キロメートルに達したが、それでもなお西方のボスニア・ヘルツェゴビナ政府支配下の本土とは結ばれず、スレブレニツァ周辺地域はいぜん孤立して残っていた。ICTYの判決文によると、スレブレニツァは「セルビア人勢力の中に孤立した脆弱な島」であった[47]

その後数ヶ月間の間、セルビア人武装勢力はコニェヴィチ・ポリェ(Konjević Polje)とツェルスカの村を制圧し、スレブレニツァとジェパを結ぶ回廊を切断し、スレブレニツァ飛び地の面積は150平方キロメートルに縮小した。ボスニア政府側の統制が及ばなくなった地域のボシュニャク人の住民はスレブレニツァの町へと逃げ込み、紛争前は3万5千人程度であった町の人口は、5万ないし8万程度まで増加した[3]

国際連合保護軍(UNPROFOR)の指揮官であるフランスフィリップ・モリヨンPhilippe Morillon)将軍は1993年3月にスレブレニツァを訪れた。この時、町は人口過多であり、包囲網により苦境にあった。セルビア人勢力によって水の供給が遮断されたことによってほとんど水がなくなり、人々は間に合わせの発電機で電力不足をしのぎ、食料、医療、その他の生活に必要なものが極限状態にまで不足していた。モリヨン将軍が去る前、将軍はスレブレニツァでパニック状態にある住民を集め、町は国連の保護下にあり、決してスレブレニツァの人々を見捨てたりはしない、と述べた[3][7]

1993年の3月から4月にかけて、数千人のボシュニャク人が国際連合難民高等弁務官事務所(UNHCR)の援助のもとでスレブレニツァを脱出した。サラエヴォのボスニア・ヘルツェゴビナ中央政府はこの避難に対して、ボシュニャク人が多数派である地域におけるセルビア人勢力による民族浄化作戦を利するものであるとして反対した。 セルビア人の当局はなおもスレブレニツァ飛び地の制圧を目指していた。1993年4月13日、セルビア人はUNHCR代表部に対して、ボシュニャク人が降伏しない場合、2日以内にスレブレニツァを攻撃すると警告した[48]。ボシュニャク人は降伏を拒否した。

スレブレニツァ「安全地帯」

1994年9月時点でのボスニア・ヘルツェゴビナの支配勢力図。セルビアとの国境に近い東部ボスニアにあるボシュニャク人の飛び地がスレブレニツァとジェパである。

1993年4月: 安保理がスレブレニツァを「安全地帯」に指定

1993年4月16日国際連合安全保障理事会(国連安保理)は決議819号を可決し、「全ての部隊とその他当局者は、スレブレニツァとその周辺地域を安全地帯として扱い、いかなる武力攻撃やその他の敵対行動をとってはならない」とした[7][25][26][28][29]1993年4月18日UNPROFORの最初の部隊がスレブレニツァに到着した。

スレブレニツァ飛び地周辺へは、スルプスカ共和国軍のドリナ軍団3団からの千人ないし2千人の兵士が、戦車装甲戦闘車両大砲迫撃砲を装備して展開していた。飛び地に留まっていたボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍の第28山岳師団は、うまく組織されておらず装備も貧弱であった。確固たる指揮系統や伝達システムが無く、兵士の一部は古い狩猟用ライフルのみか全く武器を持っていない状態であった。きちんとした制服を持っていたのはごく僅かであった。

「安全地帯」の合意は、当初より双方の勢力によって侵された。国連保護軍のオランダ軍部隊の指揮官であったトマス・カレマンス(Thomas Karremans中佐はICTYで証言し、彼の部隊がスレブレニツァに戻ることや装備や弾薬の搬入を、スルプスカ共和国軍によって妨害されたとした[38]。スレブレニツァにいたボシュニャク人は、セルビア人兵士による攻撃があることを訴えた。他方でセルビア人は、スレブレニツァのボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍は「安全地帯」をスルプスカ共和国軍に対する反撃のための「便利な基地」として利用しており、国連保護軍はそれを阻止するいかなる手段もとっていないとした[26][38]セフェル・ハリロヴィッチSefer Halilović)は、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦軍のヘリコプターが飛行禁止区域を侵害して飛行し、彼自身の命令で弾薬を積んだ8機のヘリコプターを第28師団に送ったことを認めた。

1995年初め: スレブレニツァ「安全地帯」内の状況悪化

1995年初めには、スレブレニツァへの補給物資搬入は困難を増していた。既に乏しかった民間人用の物資は更に不足を極め、国連軍までもが食料、医薬品、弾薬、燃料の危機的なまでの不足に直面した。燃料などの不足により、オランダ部隊による飛び地内のパトロールは徒歩に切り替えられた。スレブレニツァから外に出たオランダ軍兵士は帰還を認められず[49]、その人数は600人から400人にまで減少した。3月から4月にかけて、オランダ部隊は2つの監視哨所、監視哨R(OP Romeo)および監視哨Q(OP Quebec)の近くでセルビア人勢力が増強されていることに気付いた。

1995年3月、和平合意に向けた交渉が進行中であり、国際社会から紛争終結への圧力があるにもかかわらず、スルプスカ共和国の大統領ラドヴァン・カラジッチは、スルプスカ共和国軍に対し、この飛び地に対する長期戦略に関する命令書を発した。この命令書は「命令書7号」として知られ、スルプスカ共和国軍に次のことを求めている。

スレブレニツァとジェパとの物理的分断を可及的速やかに完成させ、両飛び地の人員の連絡を遮断すること。熟考して計画された戦闘作戦によって、スレブレニツァの住民に対していかなる生存・生活の望みをも与えない、絶対的に危険な耐え難い状況を作り出すこと。 — 英訳に基づき引用者により翻訳。[50]

1995年中ごろには、スレブレニツァにおけるボシュニャク人の民間人および軍人の生活環境は破滅的な状況に至った。5月には、ボシュニャク人のナセル・オリッチと彼の幕僚はヘリコプターで飛び地を脱出しトゥズラへと移り、現場には第28師団の高級士官たちが残された。6月末から7月初期にかけて、第28師団は一連の報告書を作成した。その中には、飛び地へと通じる人道上の回廊の再開を求める切迫した嘆願もあった。それが失敗に終わると、ボシュニャク人の市民はやがて飢えによって死に始めた。7月7日金曜日、スレブレニツァの市長は、8人の市民が餓死したことを報告している[30]

1995年7月6日-11日:セルビア人がスレブレニツァを制圧

オランダ軍のYPR-765は、前方にはセルビアの戦車を、後方にはボシュニャクの対戦車砲を監視しなければならなかった[51]

7月8日、オランダのYPR-765装甲車がセルビア人から砲撃を受けて退却した。ボシュニャク人の一団は装甲車に対し、その場に留まって守ってくれるように要求した。オランダ軍がそれを拒否すると、ボシュニャク人の一人が手榴弾を装甲車に投げ、これによってオランダ人兵士ラフィフ・ファン・レンセン(Raviv van Renssen)が死亡した。

セルビア人勢力は1995年7月6日ごろから、国連指定の「安全地帯」に侵入した[7]。初期の侵入の成功と、大部分が非武装化されたボシュニャク人からの抵抗の少なさ、そして国際社会からの無反応によって勢いづき、スルプスカ共和国大統領ラドヴァン・カラジッチは7月9日遅くに新しい命令を発して、スルプスカ共和国軍ドリナ軍団に対してスレブレニツァを制圧する権限を与えた[3][38]

1995年7月10日の朝、スレブレニツァの状況は緊迫していた。道は住民であふれていた。国連保護軍のオランダ部隊は攻撃してくるセルビア人部隊に対して警告射撃を行い、迫撃砲にて照明弾を撃ったが、セルビア人部隊そのものは決して射撃しなかった。カレマンス中佐は町を守るために北大西洋条約機構 (NATO) に対して上空援護の緊急要請を幾度も発したが、何ら援護はなく、1995年7月11日の午後2時30分ごろになってようやく、町へと向かっているスルプスカ共和国軍の戦車が爆撃された。NATOはまた、町を見下ろすスルプスカ共和国軍の砲兵陣地へ向けて爆撃しようとしたものの、視界不良のために作戦を中断せざるを得なかった。NATOは空爆を続けることを計画したが、スルプスカ共和国軍がオランダ部隊および捕らえているフランス軍パイロットを殺害すると脅し、また2万から3万の市民が逃げ込んでいた、町のはずれにあったポトチャリPotočari)の国連施設を砲撃すると脅したため、空爆を諦めた[38]

国連の下で活動していたオランダ軍は、安全地帯のボシュニャク人難民を守ることができなかったことに関して非難を受けてきた。カレマンスは、ポトチャリに集まった市民の命運が掛かった交渉に失敗したが、その交渉の席上で、虐殺の容疑者でセルビア人勢力の将軍であるラトコ・ムラディッチと乾杯しているところを録画されている[52]。他方、国連軍の兵士はサラエヴォにある彼らの司令部から見捨てられたと感じており、事実上セルビア人勢力の人質となっていた。更に、10平方キロメートルの領域は軽武装の400人の兵士で守ることは不可能であった。交渉でムラディッチは、全ての兵士・市民の引渡しを求めていたが、すでに1万人以上の成人男性たちはトゥズラにむけて脱出を始めた後であり、オランダ部隊の手の及ぶ範囲内にはなかった[3]

1995年7月: 虐殺

ボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人政府の最高位にあった2人の政治家、ラドヴァン・カラジッチモムチロ・クライシュニクMomčilo Krajišnik)に対して、スルプスカ共和国軍参謀総長のラトコ・ムラディッチは、この計画はジェノサイドの実行なしには成し得ないと警告した。ムラディッチは次のように述べた。

人々は、小さな石や、誰かのポケットに入ったカギのように容易にある場所から他の場所へと動かせるものではない……したがって、一地域にセルビア人のみを留まらせ、他の人々を痛みなしに立ち退かせることは不可能である。クライシュニク氏およびカラジッチ氏が世界に対してこのことをどのように説明するかは分からない。(が)これはジェノサイドだ。 — 原文英語。翻訳および括弧内補記は引用者。[53]

7月11日-13日: ポトチャリ人道危機

1995年7月11日の夕方までに、2万から2万5千のスレブレニツァからのボシュニャク人難民がポトチャリに集まり、国連施設での保護を求めた。施設内には数千人がすし詰めとなり、その他の人々は周辺の工場や畑にあふれ出した。その大半は女性や子ども、老人、障害者であったが、63人の証言者による推測では男性もまた、国連施設の防衛線内に少なくとも300人、周囲の群集中に600人から900人は集まっていた[38]。オランダ部隊によれば彼らの基地も満員であった。

ポトチャリの状況は悲惨であった。食料や水はごくわずかであり、それに加えて7月の気温によって息苦しい状態にあった。オランダ兵の士官の1人は、この状況を次のように述べている。

彼らはパニック状態で、おびえており、我先に兵士たち、我が兵士たち、彼らを落ち着かせようとする国連軍の兵士たちへ向かって押し寄せていた。誰かが倒れるとその上を踏んで寄せてきた。無秩序状態であった。 — 原文英語。翻訳は引用者。[38]

7月12日–13日: ポトチャリでの人道犯罪

1995年7月12日、日があけて時間がたつにつれ、スルプスカ共和国軍が家屋や干草に放火している姿が、難民の集まっている国連施設からも確認できた。午後の間、セルビア人兵士は群集の中に入り込み、男性に対する即決処刑を繰り返した[38]。ある証人は、7月12日の午前遅くに、ポトチャリの運送施設の裏のトラクターのような機械の隣に、20体から30体ほどの遺体が積み上げられていたのを目撃したことを証言している。別の証人は、ポトチャリに集まった避難民の中でセルビア人兵士が子供をナイフで殺害する姿を目撃したとしている。この証人はさらに、セルビア人兵士が亜鉛工場の裏で100人以上のボシュニャク人男性を処刑し、その遺体をトラックに載せていたとしている。しかし、別の証拠によると、ポトチャリでの殺害は散発的なものであった可能性が示唆されている。セルビア人兵士らは難民の群集のなかから人を連れ出してはどこかへ連れ去っていた。ある証人は、夜間に幼い子供と10代の兄2人がセルビア人に連れて行かれた様子を証言している。少年らの母親が彼らを探しに行ったところ、咽喉を切られた姿で見つけたという[36]

その夜、オランダ部隊の衛生兵は、2人のセルビア人が少女を強姦していたと証言している[36]

ある生存者によると、平和維持活動中でありながらこの状況に対して何もすることができずにいるオランダ人国連軍兵士のすぐそばで、子どもの断首、女性の強姦が行われていたと述べている。この人物によると、あるセルビア人兵士が子供の母親に対して、子供を泣き止ませるよう命じた。子供がその後も泣き続けると、セルビア人兵士は子供を取り上げて咽喉を切り、笑ったという[54]。強姦や殺人の話は群集の間に広まり、彼らの恐怖を一層激化させた[38]。難民の中には、恐怖のあまりに首をつって自殺を図る者もいた[36]

ポトチャリでのボシュニャク人男性の分離と殺害

7月12日の朝より、セルビア人兵士は、避難民の中から男性を集めて複数個所に分散拘留し始めた。避難民が北のボスニア政府支配地域へ向かうバスへ乗車を始めると、乗り込もうとしていた従軍可能年齢の男性をむりやり引き離した。時には年少者や高齢者も引き離しの対象となった[55]。この男性らは「ホワイト・ハウス」と呼ばれていた建物に連れて行かれた。早くも1995年7月12日夕方には、オランダ軍のフランケン(Franken)少佐は、ボスニア側への難民引渡しの場所であったクラダニKladanj)に到着した人の中に、男性が一人もいないことを聞かされた[38]

1995年7月13日、オランダ軍部隊は、隔離された男性をセルビア人兵士が殺害している明らかな形跡を目撃した。たとえばファーセン(Vaasen)伍長によると、2人のセルビア人兵士が1人の男性を「ホワイト・ハウス」の裏へと連れて行く姿を目撃した。その後銃声が聞こえ、2人のセルビア人兵士だけが戻ってきた。別のオランダ軍士官もセルビア人兵士が非武装の男性の頭を一撃で打ち抜くのを目撃したほか、午後中、1時間あたり20から40回の銃声を耳にした。複数の男性が「ホワイト・ハウス」の裏へ連行され戻って来ていないという兵士からの報告を受けてスレブレニツァ地域の国連軍事監視団(United Nations Military Observer; UNMO)のヨーセフ・キンゴリ(Joseph Kingori大佐は調査に向かった。現場に近付いた大佐は銃声を聞いたが、セルビア人兵士によって止められ、何が起きているかは確認できなかった[38]

処刑の一部は夜間にアーク灯の明かりの下で行われ、工事用のブルドーザーによって遺体はまとめて遺棄された。フランスの警察官ジャン=ルネ・リュ(Jean-René Ruez)がボシュニャク人から集めた証拠によると、被害者の一部は生きたまま埋められた。また、セルビア人兵士たちは難民を好きなように虐待・殺害し、道路には遺体が散乱していた。難民たちの一部は、鼻や唇、耳をそぎ落とされるのを逃れるために自殺を図り、また大人たちは彼らの子どもが殺害されるのをなすすべなく見守るしかなかった[56]

女性の強制移送

国連側とセルビア人勢力との間での交渉の結果、2万5千人前後のスレブレニツァの女性がボスニア政府支配地域へと強制移送された。

移送用のバスの中には安全な地にたどりつけなかったものもあったようで、ポトチャリからクラダニへの先発のバスの1台に身を潜めていた男性カディル・ハビボヴィッチ(Kadir Habibović)の証言によると、少なくとも1台のバスがボシュニャク人女性を満載してボスニア・ヘルツェゴビナ政府統制地域から離れていったのを目撃している[57]

ボシュニャク人男性の行軍

スレブレニツァでは、兵役年齢にある身体の健全な男子は、50キロメートル離れたボスニア政府支配地域のトゥズラまで、セルビア人勢力支配地域を徒歩で移動することを決定した。スレブレニツァへの攻撃が始まる前から既に住民らは疲弊し、食料や武器などあらゆるものが欠乏していた中、2日分の食料とわずかの武器をかき集め、ボシュニャク人の男性やその家族らは、トゥズラを目指すこととなった。行軍に参加した者の総数は1万人から1万5千人と見積もられ、このうちおよそ3分の1がボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍(ARBiH)第28師団に属する軍人、残りの3分の2が民間人であったと見られる[58]。夏の暑さによって多くのものが脱水状態に陥り、また3日目からは食料も不足し、食料と飲料の確保は困難を極めた。武器も不足しており、全体の3分の1を占めていた軍人の中でも武装していたのは1000人のみであった、あるいは猟銃などで武装するのみであったとの証言もある。スレブレニツァの周辺にはセルビア人勢力によって敷設された地雷原があり、安全を確保できた経路は人1人分の幅しかなかったため、隊列の長さは12キロメートルから15キロメートルにも及んだ[58]。途中でなんどもセルビア人勢力からの攻撃を受けて多くの者が死傷しており、また攻撃や消耗、セルビア人側への投降などによって隊列から切り離された者の多くが後にスルプスカ共和国軍に捕らえられ、殺害されている。途中、錯乱を起こして仲間に襲いかかったり、自殺を図る者も多数あらわれた。行軍は6日間に及び、最終的にトゥズラまでたどり着くことができたのは全体の3分の1、4000人から6500人程度であった[59][60][61]

7月11日:トゥズラ隊の出発

1995年7月11日夕方、ボシュニャク人らの間で、身体の健全な男性は森へ入り、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍第28師団とともに隊列を組み、北のボシュニャク人支配地域へ向かうべきだとする知らせが流れた[62]

スレブレニツァ虐殺に関する軍事作戦の図。緑の矢印が脱出するボシュニャク人の行軍隊

22時ごろ、師団司令部は、スレブレニツァ自治体のボシュニャク人当局者とともに、隊列を組むことを決定した。森を抜けてトゥズラを目指すほうが、セルビア人勢力の手に落ちるよりも、生き延びられる可能性が高いと考えたためである。行軍隊は村の近くのヤグリツィ(Jaglici)およびシュシュニャリ(Šušnjari)で結成された。1995年7月11日の真夜中ごろ、隊列は移動を開始し、ブラトゥナツとコニェヴィチ・ポリェ(Konjević Polje)の間を北西に向かった。証言によると、1万から1万5千の男性が行軍に加わった。隊列のうち5千人は第28師団の軍人であったが、彼らが全て武装していたわけではなかった。その他、スレブレニツァの政治的指導者や地元病院の医療スタッフ、スレブレニツァの有力者一族などがいた。少数の女性や子ども、老人もこの行軍に加わり、森を歩いた[3][49][62][59]

隊列の先頭は第281旅団の兵士とスレブレニツァの有力者らであり、ナセル・オリッチの 家族も含まれていた。途中の部分は兵士と民間人が混在しており、末尾は第282旅団の兵士が固めていた。スルプスカ共和国軍は、スレブレニツァのボシュ ニャク人らはポトチャリに逃げこむことを想定し、トゥズラまでの強行突破を図るという事態を想定していなかったため、即座に対応することができず、大きな混乱をもたらした[58][63]。隊列の長さは12キロメートルから15キロメートルにも及び、先頭集団が出発したのが7月12日の0時過ぎで、末尾が出発したのは同12日の正午近くとなっていた[58]

7月12日-16日: カメニツァ丘での待ち伏せとサンディチでの虐殺

ボシュニャク人の隊列がトゥズラまでの行軍を始めたことを知ったスルプスカ共和国軍は、急遽、可能な限りの兵力や重火器類を集めて対応を始めた。ボシュニャク人集団がカメニツァ(Kamenica)周辺を前進していた12日の午後8時頃、この集団がトゥズラへ向かうために必ず横断しなければならない舗装道路に、スルプスカ共和国軍が警戒線を敷いて待ち伏せしていた。隊列の先頭を歩いていた集団は、この警戒線が完成しないうちに道路を渡り切ることに成功したが、後続の集団はコニェヴィチ・ポリェ近くでこの道路を横断しようとしたところで、セルビア人の襲撃を受けることになった。隊列は中央で二分され、後続集団は道路を横断できないまま行く手をふさがれ、先頭集団との連絡は絶たれて取り残された。彼らはここに数日間にわたって閉じ込められ、その間、セルビア人側から激しい銃撃、砲撃を受け続けた。また、セルビア人はメガホンを用いて、ジュネーブ条約の順守や捕虜交換が行われる旨を告げ、投降を呼びかけた。彼らは、オランダ軍から奪った国連のヘルメットや青い車両などを用いて安心させるといった手段も用いた。後続集団に対するセルビア人の「人間狩り」によって、ノヴァ・カサバ(Nova Kasava)およびサンディチ(Sandići)では数千人のボシュニャク人が捕獲・投降によってスルプスカ共和国軍に捕らえられ、後に殺害されている[64][65][66][67][61]

道路を渡ることができた一団は、セルビア人による散発的な追撃に応戦しながら前進を続けた[67]。この集団の中では幻覚やせん妄の症状を呈する者が多数現われた。他者に攻撃したり自殺を図る者、その他意味不明の言動を繰り返す者も出ていた。行軍に加わっていた医師は、サンディチでの攻撃で化学兵器が用いられたと直感したと話している[7]

7月13日: ウドルチュ山行軍

道路を横断できた先頭集団は、ヴラセニツァ市のウドルチュ山を目指して前進した。行軍は夜間、出来る限り森の中を通るようにして進められ、13日の朝にはウドルチュ山のふもとにたどり着き、集団の再編成を図った。はじめ、コニェヴィチ・ポリェでの封鎖を破り後続集団を救出するために、300人の兵士をコニェヴィチ・ポリェへと戻す計画が持ち上がったが、後に計画は撤回される。昼の間、この集団はウドルチュ山で待機し、後続集団を待った[68]。彼らはその後3日間にわたり、夜間を中心に北を目指して移動を続けた[67]。この過程で、一部の集団ははぐれてツェルスカ方面に向かっている[68]

7月14日: スナゴヴォ山での待ち伏せ

13日の午後4時、ウドルチュ山で休息していたボシュニャク人の集団は、グロディGlodi)方面に向けて行軍を再開した。一行はここから西よりに向きを変えてツァパルデCaparde)へと向かおうとしていたが、セルビア人勢力はそれを予想してその手前のヴェリャ・グラヴァ山(Velja Glava)で待ち伏せをしていた。これに気づいたボシュニャク人の集団は、進路を北にとりスナゴヴォSnagovo)へと向かった。一部の集団ははぐれて、そのままツァパルデへ向かい、セルビア人の警戒線に正面から突っ込んでいってしまった[68]。隊列の主部はスナゴヴォに到達し、さらにリプリェ(Liplje)およびマルチチ(Marčići)の近くへ移動した。セルビア人側の予想よりも東寄りの進路をとったことは、スルプスカ共和国軍の意表をついたものであり、ボシュニャク人の進路からわずか数キロメートル東にあるズヴォルニクがボシュニャク人に攻撃されるおそれを抱かせた。セルビア人はマルチチ付近で再び警戒線を張り、さらに警察官や兵士をかき集めて待ち伏せを図った。7月14日の夕方、ボシュニャク人の集団はセルビア人勢力の襲撃を受け、大規模な戦闘が起こった。日が変わって7月15日の午前4時30分頃にも、再度セルビア人による攻撃が行われた。戦闘のさなかに、ボシュニャク人の隊列はスルプスカ共和国軍の指揮官、ゾラン・ヤンコヴィッチ(Zoran Janković)少将を捕獲し、また武器や物資を獲得した[69]

7月15日: 前線への接近

14日の大規模攻撃で先頭集団からはぐれた一団を救出するために、一部の兵士が後方に残ることとなった。7月15日の夕方、第28師団は、スルプスカ共和国軍から奪ったウォーキートーキーを用い、トゥズラを拠点とするボスニア・ヘルツェゴビナ政府軍・第2軍団との通信に成功した。第2軍団ははじめは通信相手が第28師団であるとは信じなかったが、シャビッチ(Šabić)兄弟が互いを認識できたことにより、それぞれがセルビア人勢力との前線の前後にいることが確認された[69]

ボシュニャク人の先頭集団は7月15日の夜8時ごろ、ボスニア政府支配地域主部とセルビア人勢力の前線となっているバリコヴィツァ(Baljkovica, 北緯44度27分 東経18度58分 / 北緯44.450度 東経18.967度 / 44.450; 18.967 (Baljkovica))前線までわずか数キロメートルのところにある、クリジェヴィチ(Križevići)に到達した。また、14日の大規模攻撃で先頭集団からはぐれた一団はリプリェ周辺に留まった。ウォーキートーキーの獲得により、スルプスカ共和国軍との直接の交渉も可能となった。第28師団は、拘束したヤンコヴィッチを交渉材料としてスルプスカ共和国軍のズヴォルニク旅団と連絡をとった。ズヴォルニク旅団の司令官ヴィンコ・パンドゥレヴィッチ(Vinko Pandurević)は、ボシュニャク人のトゥズラへの安全な移動を保証するとし、そのための時間的猶予を求めた。しかしこれは、セルビア人側が総攻撃を仕掛けるための時間稼ぎであり、ズヴォルニク旅団は繰り返し待機を求めた後に降伏を要求した[69]

7月16日: バリコヴィツァ前線突破

バリコヴィツァ前線では、ボシュニャク人集団とボスニア政府支配地域とを遮断するように、スルプスカ共和国軍ズヴォルニク旅団所属の「ドリナの狼」が布陣していた。この部隊はズヴォルニク旅団の一員としてスレブレニツァの攻撃に参加していたが、第28師団の脱出の判明により他のズヴォルニク旅団部隊と共に追撃の為に投入されていた。ここでボシュニャク人集団はセルビア人側戦闘指揮所を襲撃して戦車2台と20mm機関銃を奪取し、3つのセルビア側塹壕線の内最初の1本を突破する。その後ボシュニャク人集団はボスニア政府軍第2軍団に対し、前線突破のために「ドリナの狼」への牽制攻撃を要請したが、目立った攻撃は確認されなかった。しかし、ボシュニャク人集団を先導する第28師団の元司令官ナセル・オリッチが義勇兵を率いてボスニア政府地域側から「ドリナの狼」を攻撃、前線にわずかながらの空白を生むことに成功する。ボシュニャク人集団はこの間隙を突いて前線を突破するために最後の攻撃を行うことを決断した。集団側は自殺用の分を含め手持ちの武器弾薬すべてをかき集め第28師団将兵を先頭にオリッチ配下の義勇兵中隊と連携して「ドリナの狼」を攻撃、挟撃を受けた「ドリナの狼」の損害は著しく、ズヴォルニク旅団司令官パンドゥレヴィッチは独断で攻撃の中止命令を下した。これまでに、ズヴォルニク旅団は第28師団の追撃と同時に処刑前のボシュニャク人3000人の収容施設の捜索と確保まで命じられており、パンドゥレヴィッチ司令官は上層部に抗議していた。「ドリナの狼」が体制の立て直しを完了するまでの間、バリコヴィツァ前線に回廊を開くことになり、ボシュニャク人集団はそこを伝って最後の前線を突破した。この時点でボシュニャク人集団の人数は4000人から6500人ほどにまで減少していた[70][60][61][71]

7月16日: トゥズラへの到着

7月16日: 回廊の閉鎖

他のグループ

スレブレニツァにおける男性市民殺害計画