この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字(ビルマ文字)が含まれています詳細
ミャンマー連邦共和国
ပြည်ထောင်စု သမ္မတ မြန်မာနိုင်ငံတော်
ミャンマーの国旗 ミャンマーの国章
国旗 国章
国の標語:なし
国歌
ミャンマーの位置
公用語 ビルマ語
首都 ネピドー
最大の都市 ヤンゴン
政府
大統領 ウィンミン英語版
国家顧問 アウンサンスーチー
第一副大統領英語版ミンスエ
第二副大統領ヘンリーバンティオ
面積
総計 676,578km240位
水面積率 3.06%
人口
総計(2014年 51,419,420人(25位
人口密度 75人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2017年 91兆2,826億[1]チャット
GDP (MER)
合計(2017年 673億[1]ドル(72位
GDP (PPP)
合計(2017年3,298億[1]ドル(53位
1人あたり 6,265[1]ドル
独立
 - 日付
イギリスより
1948年1月4日
通貨 チャット (MMK)
時間帯 UTC +6:30(DST:なし)
ISO 3166-1 MM / MMR
ccTLD .mm
国際電話番号 95
注2: かつてのccTLDは.bu

ミャンマー連邦共和国(ミャンマーれんぽうきょうわこく、ビルマ語: ပြည်ထောင်စု သမ္မတ မြန်မာနိုင်ငံတော်[2]英語: Myanmar)、通称ミャンマーは、東南アジアインドシナ半島西部に位置する共和制国家。独立した1948年から1989年までの国名はビルマ連邦、通称ビルマ東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟国、通貨はチャット、人口は 5,142万人(2014年)[3]首都ネピドー2006年まではヤンゴン)。

南西はベンガル湾、南はアンダマン海に面する。南東はタイ、東はラオス、北東と北は中国、北西はインド、西はバングラデシュと国境を接する。インド東部とミャンマー南西部はベンガル湾を挟んで相対している[4]

多民族国家[5]人口の6割をビルマ族が占め、ビルマ語公用語である。他に、カレン族カチン族、カヤー族、ラカイン族、チン族、モン族シャン族、北東部に中国系のコーカン[6]などの少数民族がおり、独自の言語を持つ民族も多い[7]言語参照)。

国名

正式名称のビルマ語表記は、ပြည်ထောင်စု သမ္မတ မြန်မာနိုင်ငံတော်国際音声記号では、[pjìdàuɴzṵ θàɴməda̯ mjəmà nàiɴŋàɴdɔ̀](ピダウンズ・タンマダ・ミャンマー・ナインガンドー、Pyidaungzu Thanmada Myanma Naingngandaw)。通称は、Myanmar Naingngan(ミャンマー・ナインガン)。ビルマ語では、口語的な呼称としてBurma(ဗမာ、バマー)、文語的な呼称としてMyanmar(ျမန္မာ、ミャンマー)があり、ミャンマーでは古くからこの2つの呼称を使い分けている。

2010年以降の公式の英語表記はRepublic of the Union of Myanmar[8]。通称は Myanmar

2010年以降の日本語表記はミャンマー連邦共和国。通称はミャンマー

1948年から1974年までビルマ連邦

1974年から1988年まではビルマ連邦社会主義共和国(公式の英語表記はSocialist Republic of the Union of Burma

1988年から1989年まではビルマ連邦、1989年から2010年まではミャンマー連邦(公式の英語表記はUnion of Myanmar

通称は、独立以前からビルマ連邦まで一貫して、ビルマ漢語(北京官話)で緬甸(Miǎn diàn)と表記し、日本語でも同じ表記(読みは「めんでん」)が用いられ、略語のも用いられた(泰緬鉄道など)。日本軍統治(太平洋戦争)の間通称(ビルマ国)にされる。ビルマは、江戸時代末期に蘭学者によってオランダ語ポルトガル語由来説もある)からもたらされた。

1989年6月18日軍事政権国家法秩序回復評議会」 (SLORC) は、国名の英語表記をUnion of BurmaからUnion of Myanmarに改称した。変更したのは英語表記のみで、ビルマ語での国名は以前のまま同じである。軍事政権が代表権を持つ国連と関係国際機関は、「ミャンマー」に改めた。日本政府は軍政をいち早く承認し、日本語の呼称を「ミャンマー」と改めた。日本マスコミは多くが外務省の決定に従ったが、軍事政権を認めない立場から括弧付きで「ビルマ」を使い続けるマスメディアもある。『朝日新聞』は長らく「ミャンマー(ビルマ)」と表記していたが、2012年の頃「(ビルマ)」を削除している。また、毎日新聞は「ミャンマー」表記を原則としつつも、専門家の寄稿については「ビルマ」表記も容認している。

軍事政権の正当性を否定する人物・組織は、改名が軍事政権による一方的なものだとして英語国名の変更を認めていない。ただし、「ビルマ」が植民地時代にイギリスにより利用された名称であり、より民族主義的であるとされる「ミャンマー」表記を擁護する意見もある。

名称変更を認めていない立場から、アウンサンスーチービルマ連邦国民連合政府 (NCGUB) のほか、アメリカ合衆国イギリスオーストラリア政府などは「ビルマ」とし、EUが両表記を併記する例もあった。ASEAN諸国、日本、インド、中国、ドイツ政府などは「ミャンマー」表記を採用している。マスコミも対応が分かれている。タイの英字紙、BBC、『ワシントン・ポスト』、ボイス・オブ・アメリカ(VOA)、『タイム』、主要な人権団体は「ビルマ」を用い、『ニューヨーク・タイムズ』『ウォール・ストリート・ジャーナル』、CNNAP通信ロイターは「ミャンマー」を採用している。

歴史

ビルマでは10世紀以前にいくつかの民族文化が栄えていたことが窺えるが、ビルマ民族の存在を示す証拠は現在のところ見つかっていない。遺跡からビルマ民族の存在が確実視されるのはパガン朝11世紀 - 13世紀)以降である。ビルマ族は10世紀以前にはまだエーヤワディー川(イラワジ川)流域に姿を現していなかった。ビルマ族の起源は中国青海省付近に住んでいたチベット系族と考えられている。580年、氐族の最後の王朝である仇池の初代皇帝楊堅に攻められ滅亡。四散した氐族は、中国雲南省大理にあった烏蕃中国語版氏の六詔中国語版の傘下に入ったと考えられている。後に六詔が統一されて南詔となった。

驃国・タトゥン王国

パガン王朝の都、バガン。バガンとは広くこの遺跡群の存在する地域を指し、ミャンマー屈指の仏教聖地である。

ミャンマー南部の地は古くからモン族が住み、都市国家を形成して海上交易も行っていた。北部では7世紀ピュー人ピュー(驃)を建国した。 832年、驃国は南詔に滅ぼされ、モン族とピュー族は南詔へ連れ去られたために、エーヤワディー平原(ミャンマー)は無人の地となり、200年間にわたって王朝がなかった。9世紀頃、下ビルマでモン族のタトゥン王国英語版(9世紀 - 1057年)が建国された。

ビルマ族の南下

タウングー王朝王朝の支配領域(1572年)

1044年、南詔支配下にあったビルマ族がエーヤワディー平原へ侵入してパガン王朝を樹立した。パガンは最初小さな城市であった。王統史の言う「44代目」のアノーヤター王(在位1044年 - 1077年)が初代国王とされる。1057年、パガン王朝はタトゥン王国を滅ぼした。パガン王朝は13世紀モンゴルの侵攻を受け、1287年パガンの戦いで敗北し、1314年に滅びた。下ビルマには、モン族がペグー王朝1287年 - 1539年)を建国し、上ビルマには、ミャンマー東北部に住むタイ系シャン族が、ピンヤ朝1312年 - 1364年)とアヴァ王朝1364年 - 1555年)を開き、強盛になると絶えずペグー王朝を攻撃した。1385年から40年戦争英語版が起こり、今日のミャンマー全土を巻き込む内戦となった。1486年タウングー英語版に流れ込んでいたパガン王朝のビルマ族遺民によってタウングー王朝が建国された。タウングー王朝はポルトガルの傭兵を雇い入れ、タビンシュエーティーの治世にペグーとアヴァ王朝を併合し、次のバインナウンの治世には1559年には現東インドのマニプールを併合し、アユタヤ王朝ラーンナー王朝などタイ族小邦や、チン・ホー族英語版が住む雲南シップソーンパーンナーを支配した。しかし1612年にはムガル皇帝ジャハーンギールの下で、プラターパーディティヤ英語版が支配していたチッタゴンを除く現バングラデシュ地域がムガル帝国の統治下に入り、1666年にはさらにムガル皇帝アウラングゼーブが現ラカイン州に存在したアラカン王国支配下のチッタゴンを奪った。17世紀にタウングー王朝が衰亡し、再びモン族・シャン族が再興ペグー王朝英語版を興した。1752年3月、再興ペグー王朝によって復興タウングー王朝が滅ぼされたが、アラウンパヤーが王を称しモン族・シャン族の再興ペグー王朝軍に反撃し、これを撃退。1754年にビルマを再統一した。これがコンバウン王朝である。に助けを求めたシャン族が乾隆帝と共に興した国土回復戦争が清緬戦争[9]1765年1769年)である。しかし結局この戦いに敗れ、シャン族の国土回復の試みは失敗することになる。タイは1767年のアユタヤ王朝滅亡以来ビルマの属国だったが、1769年タークシン率いるトンブリー王朝1768年-1782年)が独立し、その後に続くチャクリー王朝1782年-1932年)は、ビルマと異なった親イギリスの外交政策をとって独立を維持することに成功した。

イギリス統治時代

イギリス人が見たシュエダゴン・パゴダ(1825年)
英緬戦争、19世紀に起こったイギリスとビルマ王国の戦争
植民地時代の旗 (1937–1948)

一方、コンバウン朝ビルマは、イギリス領インドに対する武力侵略を発端とする3度に渡る英緬戦争を起こした。国王ザガイン・ミン英語版(在位:1819年1837年)治下の初期には、英緬間に緩衝国家としてアーホーム王国1228年1826年)が存在していたが、ビルマのアッサム侵攻英語版1817年1826年)によってビルマに併合され、アッサムの独立が失われると、英緬国境が直接接触するようになっていた。ビルマは、インドを支配するイギリスに対してベンガル地方[10]の割譲を要求し、イギリス側が拒否すると武力に訴えて第一次英緬戦争英語版1824年-1826年)が勃発した。ビルマが敗れ、1826年2月24日ヤンダボ条約英語版が締結され、アッサム[11]マニプールアラカンテナセリムをイギリスに割譲した。

イギリスの挑発で引き起こされた1852年第二次英緬戦争英語版で敗れると、ビルマは国土の半分を失い、国王パガン・ミン英語版(在位:1846年1853年)が廃されて新国王にミンドン・ミン英語版(在位:1853年1878年)が据えられた。イスラム教徒のインド人華僑を入れて多民族多宗教国家に変えるとともに、周辺の山岳民族(カレン族など)をキリスト教改宗させて下ビルマの統治に利用し、民族による分割統治政策を行なった。インド人が金融を、華僑が商売を、山岳民族が警察を握り、ビルマ人は最下層の農奴にされた。この統治時代の身分の上下関係が、ビルマ人から山岳民族(カレン族など)への憎悪として残り、後の民族対立の温床となった。下ビルマを割譲した結果、ビルマは穀倉地帯を喪失したために、から輸入し、ビルマは綿花雲南経由で清へ輸出することになった。

1856年から1873年にかけて中国の雲南省・シップソーンパンナーパンゼー英語版と呼ばれる雲南回民チン・ホー族英語版)によるパンゼーの乱が起こり、雲南貿易が閉ざされた結果、米をイギリスから輸入せざるを得なくなった。1858年から1861年にかけて新首都マンダレーを建設して遷都。イギリス領インドと印僑の反対で雲南問題は遅れていたが、1885年7月にイギリス側も芝罘条約を締結して解決し、雲南・ビルマ間の国境貿易が再び許可された。1885年11月の第三次英緬戦争英語版で王朝は滅亡。1886年6月、英清ビルマ条約中国語版でイギリスは清にビルマの宗主権を認めさせると、ビルマはイギリス領インドに併合されて、その1州となる。国王ティーボー・ミン(在位:1878年1885年)と王の家族はインドのゴア州ボンベイの南に近いラトナーギリー英語版に配流され、その地で死亡した。

建国の父アウンサン(1940年代)

ビルマ人の対英独立運動第一次世界大戦中に始まり、1929年世界恐慌以後若い知識層の間に広まった。1930年には、タキン党英語版が結成された。また、タヤワディ地方では農民が武装蜂起を行い、Saya San rebellionと呼ばれる反植民地運動が下ビルマ全域に広がったが、1931年半ばに鎮圧された。1937年、インドから独立してイギリス連邦内の自治領となり、アラカンは返還されたが、アッサムマニプルはインド領(インド独立後に分割され、7姉妹州と呼ばれる)となった。1939年タキン・ソー英語版ビルマ共産党 (CPB)を結成した。

日中戦争の激化に伴い、ビルマは中華民国蒋介石政府をイギリスなどが支援する「援蒋ルート」の一つとしても使われた。1941年12月、日本はイギリスやアメリカ合衆国などに対して開戦(太平洋戦争)。日本陸軍南方作戦の一環として、タイ王国進駐に続いて英領ビルマに進撃した(ビルマの戦い)。

1942年アウンサンビルマ独立義勇軍を率い、日本軍と共に戦いイギリス軍を駆逐し、1943年に日本の後押しでバー・モウを元首とするビルマ国が建国された。

しかし1944年の独立一周年記念の席上でアウンサンは「ビルマの独立はまやかしだ」と発言。 1944年インパール作戦の失敗など日本の敗色が濃厚と見るや、1944年8月に秘密会議で反ファシスト人民自由連盟(AFPFL、1945年-1962年)が結成され、Thakin Soe率いるビルマ共産党、アウンサン率いるビルマ国民軍ウー・ヌ率いるthe People's Revolutionary Party (PRP)[12]が三派合同した。1945年3月27日、アウンサンが指揮するビルマ国民軍は日本及びその指導下にあるビルマ国政府に対してクーデターを起こし、イギリス側に寝返った。連合国軍がビルマを奪回すると、ビルマ国政府は日本に亡命した。日本軍に勝利したものの、イギリスは独立を許さず、再びイギリス領となった。1946年2月、ビルマ共産党が、内部抗争の末にAFPFLを離脱し、タキン・タントゥン英語版の率いるビルマ共産党(CPB)から、タキン・ソー英語版の率いる赤旗共産党英語版が分裂した。

独立

1947年7月19日にアウンサンがウー・ソーの傭兵によって暗殺された後、AFPFL(パサパラ)をウー・ヌが継いだ。1948年イギリス連邦を離脱してビルマ連邦として独立。初代首相には、ウー・ヌが就任した。独立直後からカレン人が独立闘争を行うなど、政権は当初から不安定な状態にあった。現ミャンマー連邦共和国政府はその建国をビルマ連邦が成立した1948年としており、ビルマ国との連続性を認めていない一方で、ミャンマー国軍については、1945年3月27日のビルマ国および日本への蜂起をもって建軍とし、この日をミャンマー国軍記念日としている。

1949年国共内戦に敗れた中国国民党軍の残余部隊英語版(KMT/NRA)がシャン州に侵入し、雲南省反共救国軍としてゲリラ闘争を行った。CIAが物資や軍事顧問団を援助し、タイへのアヘンの運び出しも行った。ヌ政権は国際連合中華民国と米国の策動に抗議した。一方で政権は中華人民共和国と連携し、シャン州の一部に中国人民解放軍および国軍部隊を展開し、1950年代半ばまでに国民党軍(KMT)勢力を一掃した(中緬国境作戦)。しかし、シャン州は依然として半独立状態が続き、独立意識の高いワ族シャン族コーカン族など諸民族を下地として、都市部から排除されたビルマ共産党(CPB)が黄金の三角地帯麻薬産業を支配下において、事実上の支配を継続した。一方、ロー・シンハン英語版(羅星漢)のKa Kwe Ye (KKY)[13]が、ビルマ共産党(CPB)に対抗させる狙いを持つネ・ウィンの後押しで結成された[14]。また、中国国民党残党から独立したクン・サ率いるモン・タイ軍英語版も独自に麻薬ビジネスを行なった他、ビルマ共産党に対する攻撃も行なった。

ヌ首相の仏教優遇政策は、キリスト教徒の割合が多い、またはキリスト教徒が支配的な立場を占めるカチン、チン、カレンなどの民族の強い反発を招いた。独立を求める民族勢力(麻薬産業を背景にする北部シャン州と、独立志向の強いカレンなど南部諸州と概ね2つに分けられる)、国民党軍、共産党勢力との武力闘争の過程で、国軍が徐々に力を獲得し、ネ・ウィン将軍が政権を掌握する下地となった。

軍事政権時代

ネ・ウィン将軍(1959年6月8日)

1958年10月27日、ウー・ヌからの打診を受けたネ・ウィン将軍のもとで暫定内閣英語版1958年-1960年)が組閣された。1960年2月、総選挙でウー・ヌが地滑り的な勝利を収め、4月4日連立内閣を組閣した。1960年12月、ベトナム戦争1960年-1975年)が勃発。1962年3月2日にネ・ウィン将軍が軍事クーデター英語版を起こし、ビルマ社会主義計画党(BSPP、マ・サ・ラ)を結成して大統領1962年3月2日1981年11月9日)となり、ビルマ式社会主義を掲げた。ネ・ウィンは、中立を標榜しつつ瀬戸際外交を行ない、アメリカとのMAP協定を破棄し、アメリカの国民党軍(KMT)への支援をやめさせ解散させる代りに、ビルマ共産党 (CPB) の麻薬ルートに対する軍事行動を約束し、軍事支援を取り付けた。1966年から始まった中国の文化大革命の影響がビルマに及び、1968年9月24日にビルマ共産党 (CPB) は、タキン・タントゥンら幹部が暗殺され、中国の影響下に入った。

1973年8月、ロー・シンハンが、シャン州軍英語版(SSA)に協力した容疑でタイに拘束された。[14]この時のロー・シンハンとクン・サの闘争を「アヘン大戦争」と呼び、完全に掌握したクン・サは「麻薬王」と呼ばれた。1974年ビルマ連邦社会主義共和国憲法が制定され、ネ・ウィンは大統領二期目に就任(ビルマ連邦社会主義共和国)。1976年に中国の最高権力者である毛沢東が死去すると、支援が減らされたビルマ共産党 (CPB) は、シャン州のアヘンが最大の資金源となった為、コーカン族・ワ族の発言力が増大した。1980年、ロー・シンハンは恩赦釈放された。1981年にネ・ウィンが大統領職を辞した後も1988年までは軍事独裁体制を維持したが、経済政策の失敗から深刻なインフレを招く等、ミャンマーの経済状況を悪化させた。

1988年にはネ・ウィン退陣と民主化を求める大衆運動が高揚し、ネ・ウィンは7月にBSPP議長を退く(8888民主化運動)。同年9月18日に政権を離反したソウ・マウン国軍最高司令官率いる軍部が再度クーデターにより政権を掌握し再度ビルマ連邦へ改名した。総選挙の実施を公約したため、全国で数百の政党が結成される。軍部は国民統一党を結党し体制維持を図った。民主化指導者アウンサンスーチーらは国民民主連盟 (NLD) を結党するが、アウンサンスーチーは選挙前の1989年自宅軟禁された。以降、彼女は長期軟禁と解放の繰り返しを経験することになる。1988年1月、ビルマ共産党 (CPB) 内部で、インド系上層部とワ族・コーカン族の下部組織との間で武力闘争が起こり、上層部が中国へ追放されてビルマ共産党が崩壊し、1989年ワ州連合軍英語版が結成された。この時、キン・ニュンが、利用価値を見いだしたロー・シンハンを派遣して停戦調停を行なった。

1989年6月4日、中国で天安門事件が勃発。1989年6月18日に軍政側はミャンマー連邦へ国名の改名を行った。1989年12月、マルタ会談1990年5月27日に実施された総選挙英語版ではNLDと民族政党が圧勝したが、軍政は選挙結果に基づく議会招集を拒否し、民主化勢力の弾圧を強化する。前後して一部の総選挙当選者は国外に逃れ、亡命政権としてビルマ連邦国民連合政府 (NCGUB) を樹立した。1991年12月25日ソ連崩壊

1992年4月23日タン・シュエ将軍が国家法秩序回復評議会議長兼首相に就任。軍事政権は1994年以降、新憲法制定に向けた国民会議における審議を断続的に開催していた。同1994年6月から中国が大ココ島英語版を賃借し、中国はレーダー基地と軍港建設した。こうした中国の海洋戦略は、バングラデシュスリランカモルディブパキスタンなどへの進出と合わせてインドを包囲する「真珠の首飾り作戦」と呼ばれている。1997年11月、国家法秩序回復評議会(: State Law and Order Restoration Council、略称:SLORC)が国家平和発展評議会: State Peace and Development Council、略称:SPDC)に名称変更した。2000年9月、アウンサンスーチーが再び自宅軟禁された。2002年12月、ネ・ウィンが死去。

2003年8月、キン・ニュンが首相に就任。キン・ニュンは就任直後に民主化へのロードマップを発表し、保守派と対立。2004年10月、和平推進派のキン・ニュン首相が失脚して自宅軟禁された。

後任の首相には、保守派のソー・ウィンが就任。同年、中国・ビルマ・パイプライン英語版の協議が中国との間で開始され、翌2005年に中国石油天然気(PetroChina)との間で契約が成立し、中国のミャンマー進出が加速した。この緬中関係では、キン・ニュンの庇護の下でホテル経営を行っていたロー・シンハン英語版(羅星漢)率いるアジア・ワールド英語版社が独占的な契約を結んでいった。2005年11月、政府機関がヤンゴンから中部ピンマナ近郊に建設中の行政首都への移転を開始し、2006年10月に行政首都ネピドーへの遷都を公表。2007年9月27日APF通信社長井健司反政府デモ(サフラン革命)の取材中に射殺された。

2007年10月12日ソー・ウィン首相が死去したことに伴い、軍出身のテイン・セイン2007年10月に首相へ就任すると、軍政主導の政治体制の改革が開始される。2008年5月、新憲法案英語版ビルマ語版についての国民投票が実施・可決され民主化が計られるようになる。2008年5月2日サイクロン・ナルギスがエーヤワディー川デルタ地帯に上陸し、甚大な被害をもたらした。

2010年10月、国旗の新しいデザインを発表[15]11月には新憲法に基づく総選挙が実施される。また、政府はアウンサンスーチーの自宅軟禁が期限切れを迎えると発表し、総選挙の終了直後に自宅軟禁が解除された。2011年3月30日、テイン・セインは総選挙の結果を受けて召集された連邦議会の議決を経て大統領に就任。同月国家平和発展評議会 (SPDC) は解散し、その権限は新政府に移譲された。11月、アウンサンスーチー率いる国民民主連盟 (NLD) は政党として再登録された。

選挙と民主化

2015年11月8日、民政復帰後では初めてとなる総選挙が実施され、NLDが圧勝した。NLDは党首のアウン・サン・スー・チーの大統領就任を要求したものの、ミャンマー連邦共和国憲法英語版ビルマ語版の規定と国軍の反対によってそれはかなわず、次善の策としてスー・チー側近のテイン・チョーを自党の大統領候補に擁立した。ティン・チョーは2016年3月10日に連邦議会で大統領候補に指名され、3月15日には正式に大統領に選出、3月30日には連邦議会の上下両院合同会議で新大統領就任式が行われた。ミャンマーで文民大統領が誕生するのは54年ぶりで、半世紀余に及んだ軍人(及び軍出身者)による統治が終結した[16]。さらに、NLD党首のアウン・サン・スー・チーが国家顧問、外務大臣、大統領府大臣を兼任して政権の実権を握ったことにより、新政権は「事実上のスー・チー政権」と評されている。

宗教上の対立

ミャンマーの紛争地域(1995年〜現在)

ミャンマーのムスリムイスラム教徒)の起源は一様ではなく、古くは1000年ほど前に遡るところからのインド(現在のバングラデシュを含む)人漂流民、あるいは16世紀以降の諸王朝における戦争捕虜、新しいところでは19世紀から20世紀前半のイギリス植民地時代にインドから流入した労働者など、その事由は様々である[17]
宗教上の比率としては4%程度と低いものの、独自のコミュニティ形成などにより、実際の存在感はこの数字以上、というのがミャンマーにおける一般的な見方である。また地域的には、とりわけラカイン州における比率が高く、同州内にはムスリムが多数派という町もある。
長らく続いた軍事政権下では、宗教上の対立は表面化してこなかったが、2012年6月8日にはラカイン州でムスリムのロヒンギャと仏教徒との対立が激化(ラカイン州暴動英語版)。2013年3月20日にはメイッティーラでも死者が多数出る暴動放火が発生、政府により非常事態宣言が出されている[18]

ロヒンギャ問題

2016年のミャンマー国軍によるイスラム教徒の虐殺、民族浄化が続いており、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)により非難されている[19]。2016年以降、軍部によるロヒンギャ虐殺の被害者数が6千人以上の月もあったことが報道されている[20]

2017年8月25日には、反政府武装組織アラカン・ロヒンギャ救世軍がラカイン州内の治安組織を襲撃。軍の大規模な反撃を契機に、数十万人規模の難民がバングラデシュ側へ流出した[21]。同年9月、アウンサンスーチー国家顧問は、国連総会への出席を取りやめ国内の混乱収拾にあたることとなった[22]

政治

ネ・ウィン将軍が、1962年に軍事クーデターを起こし、憲法議会を廃止して実権を握って以来、他の政党の活動を禁止する一党支配体制が続いていた。

軍政以前の議会は、一院制の国民議会(英語でPeople's Assembly、ビルマ語でPyithu Hluttaw、人民議会とも訳す)。485議席。議員は、民選で任期4年。前回選挙は、1990年5月27日に投票が行われ、アウンサンスーチー率いる国民民主連盟 (NLD) 392(81%)、シャン諸民族民主連盟 (SNLD) 23を獲得、国民統一党 (NUP) 10、その他諸政党が60の議席を獲得した。しかし、軍事政権はこの選挙結果を認めず、政権の移譲を拒絶し続けた。その為、NLDなどの反軍事政権勢力は、1990年ビルマ連邦国民連合政府 (NCGUB) を組織し、軍事政権への対抗勢力として活動していた。1993年には新憲法制定のための国民会議が招集されたが、NLDはボイコットした。

軍事政権は1994年から2007年にかけて、新憲法制定に向けての基本原則や内容を審議する国民会議を断続的に開催してきた。しかし1998年に民主化運動が高揚した際に、軍事クーデターを決行して1000人以上の国民を虐殺し弾圧を加え、翌1990年にはアメリカ合衆国ビルマ連邦国民連合政府が設立されている。そのトップはアウンサンスーチーの従兄弟セイン・ウィンSein Win)であった。

2007年9月仏教僧を中心とした数万人の規模の反政府デモが行われ、それに対し軍事政権は武力による弾圧を行い、日本人ジャーナリスト長井健司を含める多数の死傷者を出した。2007年10月24日、民主化勢力に対し強硬な対応をとってきた国家平和発展評議会 (SPDC) 議長および国家元首であったタン・シュエと長らく行動を共にしてきたテイン・セインが新首相に就任。前首相ソー・ウィンまで続いていた軍主導の政治体制の改革が、テイン・セインの下で開始される。2008年5月10日及び同月24日に、新憲法案についての国民投票が実施・可決され、民主化が一歩一歩と計られるようになる。当時国家元首であったタン・シュエは表向き「私は一般市民になる、民主政権なのだから」と発言している[23]

2010年2月13日、政府は最大野党・国民民主連盟 (NLD) の2003年5月から拘束されていたティン・ウ副議長の自宅軟禁を解除した[24]。同年2月15日国連人権理事会のトマス・オヘア・キンタナ(Tomas Ojea Quintana)特別報告者がミャンマーを訪れ、自宅軟禁中のアウンサンスーチーとの2009年2月以来3度目となる面会を求めた[25]4月26日、テイン・セイン首相は軍籍を離脱し、29日連邦団結発展党を結成。10月21日、国旗を新しいデザインに変更すると発表[26]11月7日には2008年の新憲法に基づく総選挙が実施され、連邦団結発展党が8割の得票を得て勝利宣言を行った。11月に政府はアウンサンスーチーは軟禁期限を迎えると発表し、13日に軟禁状態が解除される。拘束・軟禁は1989年から3回・計15回に及んだ[27]

2011年1月31日、ネピドーで総選挙後初の連邦議会が開幕。3月30日、テイン・セインはミャンマー大統領に就任。軍事政権発足以来ミャンマーの最高決定機関であった国家平和発展評議会 (SPDC) は解散し、権限が新政府に移譲された。これにより軍政に終止符が打たれた形となったが、新政府は軍関係者が多数を占めており、実質的な軍政支配が続くともみられた[28][29]。軟禁状態を解かれたアウンサンスーチーは、政治活動の再開をめぐり政府との軋轢もあったが、7月になり両者の対話が実現、国家の発展のため協力し合うことで合意[30]10月12日には政治犯を含む受刑者6359人が恩赦によって釈放された[31]。11月4日、テイン・セイン大統領は、政党登録法の一部改正(服役囚に党員資格を与えないとした条項の削除)を承認[32]。また2008年憲法の「順守」を「尊重する」に緩和した。11月25日、国民民主連盟 (NLD) は全国代表者会議を開き、長年認められなかった政党(野党)としての再登録を完了した。年内にも行われる国会補選に参加することを決めた。

その後、2016年3月30日国民民主連盟が選出したティンチョーが54年ぶりの文民大統領に就任した。

元首・立法・行政

国家元首は、2011年3月より大統領となっている。同月、テイン・セインが連邦議会で軍籍ではない初の大統領に選出された。さらに、2016年3月にはNLDのティンチョーが大統領に就任した。

  • それ以前の国家元首は国家平和発展評議会 (SPDC) 議長だった。国家平和発展評議会は、1988年9月18日クーデターにより国家権力を掌握した軍事政権が創設した国家法秩序回復評議会 (SLORC) を、1997年11月15日に改名した組織である。立法権行政権を行使。首相は評議会メンバーの1人であったが行政府の長ではなかった。同評議会は2011年3月に解散した。

ただし、NLDがティンチョーを大統領に擁立したのは、軍事政権下で制定された憲法の規定ではNLD党首のアウンサンスーチーが大統領就任資格を奪われている(アウンサンスーチーはイギリス国籍の息子を持つのであるが、憲法では外国籍の配偶者や子を持つ者は大統領になることはできない)ため、アウンサンスーチーの「代理」としての意味合いであった。アウンサンスーチー自身も、新大統領は何らの権限を持たない傀儡であって全てを決定するのは自分であると明言していた。新政権ではアウンサンスーチーは外務大臣兼大統領府大臣、さらには新設の「国家顧問」に就き、政権の実権を掌握する体制を整えた。国家顧問は大統領に政治上の「助言」を与えることができるとされているが、アウンサンスーチーの「助言」は、事実上は大統領への「指示」となると予想されている。

議会

2008年に制定された新憲法により、二院制連邦議会Pyidaungsu Hluttaw)が創設された。連邦議会は上院(民族代表院、Amyotha Hluttaw)と下院(国民代表院、Pyithu Hluttaw)の2つで構成されている。議員は両院とも任期5年。議席数は上院が224議席、下院が440議席。各議院の議席のうち、4分の1は国軍司令官による指名枠となっており、残りの4分の3は国民による直接選挙で選出される。

2010年11月7日、新憲法に基づいて連邦議会の総選挙が実施された。軍事政権の翼賛政党連邦団結発展党 (USDP) は上下両院と地方議会合わせて1000人以上を擁立した。アウンサンスーチー率いる国民民主連盟 (NLD) の分派である国民民主勢力 (NDF) は、140人にとどまった。NLDは選挙関連法が不公平だとして選挙のボイコットを決め、解党された[33]。総選挙の結果、USDPが全議席の約8割を獲得し[34]、NDFの議席は少数にとどまった。

2011年1月31日、総選挙後初の連邦議会が開幕し、複数政党制による議会としては49年ぶりの開催となった[35]

2012年4月1日にはミャンマー連邦議会補欠選挙が実施された。NLDはアウンサンスーチーを含む44人の候補者を擁立し、同氏含む40人が当選するという大勝を飾った[36]

2015年11月8日に行われた総選挙でNLDが単独過半数の議席を獲得した。

司法