神宮
Geku Maine sanctuary Ise-jingu Grand Shrine 01-r.jpg
外宮(豊受大神宮)
所在地 内宮(皇大神宮)
三重県伊勢市宇治館町1番地
外宮(豊受大神宮)
三重県伊勢市豊川町279番地
位置 内宮:北緯34度27分18.00秒
東経136度43分30.63秒
座標: 北緯34度27分18.00秒 東経136度43分30.63秒
外宮:北緯34度29分14.05秒
東経136度42分10.53秒
主祭神 内宮:天照坐皇大御神(天照大御神
外宮:豊受大御神
社格 式内社(大)
二十二社(上七社)
神宮(近代社格超越-対象外)
創建 内宮:垂仁天皇26年
外宮:雄略天皇22年
本殿の様式 唯一神明造
別名 伊勢神宮
札所等 神仏霊場巡拝の道特別参拝
主な神事 伊勢神宮の祭事を参照
地図
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伊勢神宮(いせじんぐう)は、三重県伊勢市にある神社。正式には単に神宮(じんぐう)と称し[注釈 1]、他の神宮と区別するため伊勢神宮と通称される。「伊勢の神宮」[1]、親しみを込めて「お伊勢さん」「大神宮さん」[2]とも称される。神社本庁の本宗(ほんそう)である。

二十二社(上七社)の一社。また、神階が授与されたことのない神社の一つ[注釈 2]。古代においては宇佐神宮[3]、中世においては石清水八幡宮と共に二所宗廟のひとつとされた[4]明治時代から太平洋戦争前までの近代社格制度においては、全ての神社の上に位置する神社として社格の対象外とされた。

概要

伊勢神宮には、「太陽」を神格化した天照坐皇大御神(天照大御神)を祀る皇大神宮と、衣食住の守り神である豊受大御神を祀る豊受大神宮の二つの正宮があり、一般に皇大神宮は内宮(ないくう)、豊受大神宮は外宮(げくう)と呼ばれる[5]。内宮と外宮は離れているため、観光で内宮のみ参拝の人が多いが、まず外宮を参拝してから内宮に参拝するのが正しいとされている[5]。広義には、別宮(べつぐう)、摂社(せっしゃ)、末社(まっしゃ)、所管社(しょかんしゃ)を含めた、合計125の社宮を「神宮」と総称する[6]。この場合、所在地は三重県内の4市2郡に分布する(後述[7]。 他の多くの神社は仏教建築の影響を受け、瓦屋根や塗りの建物に変わっていったが、伊勢神宮は神明造という古代の建築様式を受け継いでいる。これは弥生時代高床式倉庫が起源で、神へのお供え物をする特別な建物だったと言われる。 伊勢神宮は皇室の氏神である天照坐皇大御神を祀るため、歴史的に皇室朝廷の権威との結びつきが強く[8]、現代でも内閣総理大臣及び農林水産大臣が年始に参拝することが慣例となっている。また、式年遷宮が20年に一度行われる(遷御#メディアによる報道)。

祭主今上天皇の妹(明仁第1皇女子)・黒田清子大宮司小松旧侯爵家当主小松揮世久[9]

祭神

主祭神は以下の2柱。

主祭神以外については、各宮の項目を参照。

神話と創祀

天孫・邇邇芸命が降臨した(天孫降臨)際、天照大御神は三種の神器を授け、その一つ八咫鏡に「吾が児、此の宝鏡を視まさむこと、当に吾を視るがごとくすべし。(『日本書紀』)」として天照大御神自身の神霊を込めたとされる。この鏡は神武天皇に伝えられ、以後、代々の天皇の側に置かれ、天皇自らが観察していた。八咫鏡は第10代崇神天皇の治世に大和笠縫邑に移され、皇女豊鍬入姫がこれを祀ることとされた。

崇神天皇5年、疫病が流行り、多くの人民が死に絶えた。

崇神天皇6年、疫病を鎮めるべく、従来宮中に祀られていた天照大御神と倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に移した。 天照大神を豊鍬入姫命に託し、笠縫邑に祀らせ、その後、各地を移動した。

垂仁天皇25年に現在の伊勢神宮内宮に御鎮座した。(詳細記事:元伊勢)倭大国魂神を渟名城入媛命に託し、長岡岬[注釈 3]に祀らせたが(現在の大和神社の初め)、媛は身体が痩せ細って祀ることが出来なかった。

『日本書紀』垂仁天皇25年3月の条に、「倭姫命、菟田(うだ)の篠幡(ささはた)に祀り、更に還りて近江国に入りて、東の美濃を廻りて、伊勢国に至る。」とあり、皇女倭姫命が天照大御神の神魂(すなわち八咫鏡)を鎮座させる地を求め旅をしたと記されているのが、内宮起源説話である(元伊勢伝承)。この話は崇神天皇6年の条から続き、『古事記』には崇神天皇記と垂仁天皇記の分注に伊勢大神の宮を祀ったとのみ記されている。移動中に一時的に鎮座された場所は元伊勢と呼ばれている。

なお、外宮は平安初期の『止由気神宮儀式帳(とゆけじんぐうぎしきちょう)』[注釈 4]によれば、雄略天皇22年7月に丹波国(後に丹後国として分割)の比沼真奈井原(まないはら)から、伊勢山田原へ遷座したことが起源と伝える。

歴史

概史

古代

皇室の氏神として、天皇以外の奉幣は禁止された(私幣禁断)[6]天武天皇の時代に斎宮が制度化され、『扶桑略記』によれば天武天皇の皇女である大伯皇女が初代とされる。

中世

朝廷への、そして皇室とその氏神への崇拝から、日本全体の鎮守として全国の武士から崇敬された[10]神仏習合の教説において神道側の最高神とされる[11]。また、外宮側の度会家行より伊勢神道度会神道)が唱えられた[11]。戦乱により神宮領が侵略され、経済的基盤を失ったため、式年遷宮(後述)が行えない時代もあった[10]。資金獲得のため、神宮の信者を増やし、各地の講を組織させる御師が台頭した[10]戦国時代には、尾張国(現在の愛知県西部)の織田信秀のように寄進を行う武将もいた[12]

『伊勢参宮名所図会』(1797年)による内宮の正宮。当時は内宮・外宮ともに板垣も外玉垣もなく、参拝客は玉串御門(現在の内玉垣南御門)前まで行けた。

近世

江戸時代にはお蔭参り(お伊勢参り)が流行した[6]。庶民には親しみを込めて「お伊勢さん」と呼ばれ、弥次さん、喜多さんの『東海道中膝栗毛』で語られるように、多くの民衆が全国から参拝した[10][6]

寛政2年(1790年)、安房国庄屋が自分の代理として愛犬を伊勢に派遣している。以後、犬の伊勢参宮が流行するようになった[13]

近現代

明治2年1869年)、明治天皇が在位中の天皇としては初めて参拝した。天皇による参拝が長期にわたり空白だった理由については諸説が唱えられているが、決定的なものはない。大日本帝国政府の神道国教化政策により、全国神社の頂点の神社として位置付けられた。第二次世界大戦以後は政教分離が図られ、宗教法人神社本庁発足に伴い、全国神社の本宗とされた。内宮前に「神宮司庁」があり、神職約100人、一般職約500人が奉職している。

佐藤栄作首相が昭和42年(1967年)に参拝して以来、現職内閣総理大臣農林水産大臣が、(正月三が日の混雑を防ぐため)主に1月4日の官公庁仕事始めの日[注釈 5]に参拝するのが慣例行事である。

式年遷宮

1953年(昭和28年)第59回内宮式年遷宮(上が新殿舎、下が旧殿舎)

神宮式年遷宮は、神宮(伊勢神宮)において行われる式年遷宮(定期的に行われる遷宮)である。原則として20年ごとに、内外両宮の正宮の正殿を始めとする別宮以下の諸神社の正殿を造替して神座を遷し、宝殿、外幣殿、鳥居、御垣、御饌殿など計65棟の殿舎といった全社殿を造替する他、714種1576点の御装束神宝(装束と須賀利御太刀等の神宝)[14]宇治橋等も造り替える[注釈 6]

記録によれば神宮式年遷宮は、飛鳥時代の天武天皇が定め、持統天皇4年(690年)に第1回が行われた[6]。その後、戦国時代の120年以上に及ぶ中断や幾度かの延期などはあったものの、平成25年(2013年)の第62回式年遷宮まで、およそ1300年間行われている[6]

年表

遷宮に関しては「神宮式年遷宮」を参照。西暦の年月日はユリウス暦によるが、「1871年7月1日」はグレゴリオ暦。年と月の西暦との対応はおおよその目安である。