やまなしけん
山梨県
Lake Kawaguchiko Sakura Mount Fuji 3.JPG
山梨県の旗 山梨県章
山梨県旗 山梨県章
日本の旗 日本
地方 中部地方甲信越地方
団体コード 19000-4
ISO 3166-2:JP JP-19
面積 4,465.27km2
(境界未定部分あり)
総人口 818,391
推計人口、2018年10月1日)
人口密度 183人/km2
隣接都道府県 埼玉県東京都神奈川県長野県静岡県
県の木 カエデ
県の花 フジザクラ
県の鳥 ウグイス
他のシンボル 県の獣:カモシカ
県の歌:山梨県の歌
県民の日:11月20日
山梨県庁
知事 後藤斎
法人番号 8000020190004
所在地 400-8501
山梨県甲府市丸の内一丁目6番1号
北緯35度39分50.9秒東経138度34分6.3秒座標: 北緯35度39分50.9秒 東経138度34分6.3秒
山梨県庁
外部リンク 山梨県
山梨県の位置

山梨県行政区画図

― 市 / ― 町 / ― 村

ウィキポータル 日本の都道府県/山梨県
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山梨県(やまなしけん)は、本州内陸部に位置する日本の一つ。県庁所在地甲府市令制国甲斐国に相当する。

概要

南に富士山、西に赤石山脈南アルプス)、北に八ヶ岳、東に奥秩父山地など、標高2,000 mを超す山々に囲まれる。島国の日本において、に全く面しない数少ない内陸県である[注 1]。山梨県の面積は全国32位であるが、その8割を山岳地が占めるため可住地面積は全国45位である。

周辺地域とは、往来が比較的容易で交通路も整備されている東京都島嶼部を除く)、神奈川県津久井地区長野県南信地方静岡県大井川以東の三方との交流が、古くから盛んである。又、埼玉県秩父地方との境は奥秩父山塊に隔てられているが、1998年平成10年)の国道140号雁坂トンネル開通により、山岳部の踏破だけでなく自動車やバスでの直接往来が可能となった。

「山梨」の県名は律令制下の甲斐四郡の一つである「山梨郡」に由来し、県名は1871年明治4年)7月の廃藩置県に際して旧甲斐国一国が甲府県を経て「山梨県」に改称された[注 2]。山梨郡は県庁所在である甲府が属している郡域であるが県名の改称理由は不明で、明治新政府による幕藩時代との断絶が意図されていた可能性が考えられている[1]。「山梨郡」は本来は甲斐一国を意味する呼称ではないため、明治時代初期には新県名が浸透せず、政治団体やその機関誌等では県域を指す地域呼称として「峡中」が用いられた[2]。現在では「山梨」が県域全体を指す呼称として定着している。

地理・地域

重心
北緯35度36分56秒東経138度36分31秒

北端
北緯35度58分18秒東経138度22分23秒
人口重心
北緯35度37分35.97秒東経138度37分12.79秒
西端
北緯35度42分52秒東経138度10分49秒
山梨県庁舎所在地
北緯35度39分50秒東経138度34分6秒
東端
北緯35度37分00秒東経139度8分4秒
 
南端
北緯35度10分6秒東経138度29分28秒
 

地形

山梨県は急峻な地形であり、花崗岩が風化したもろい真砂土の堆積地も多いために、水をどのように治めるかが政治指導者の課題であった[4]。県内各地に信玄堤と呼ばれる治水遺構が多くあるのはこの歴史的特性による[4]

自然公園

歴史

先史時代

甲斐銚子塚古墳
甲斐銚子塚古墳
金生遺跡の配石遺構
金生遺跡の配石遺構

甲府盆地では釜無川笛吹川氾濫原が広がっている。郡内地方では富士山の火山活動による影響も受け、定住が困難な時代が続いていた。

旧石器時代の遺跡は長野県との八ヶ岳山麓や静岡県の愛鷹山箱根山など隣接する文化圏に属する地域や桂川流域を中心に分布する。最古の一杯窪遺跡(都留市)や立石遺跡(甲府市)をはじめ、八ヶ岳山麓の丘の公園内遺跡群(北杜市)や神津島産の黒曜石が出土した横針前久保遺跡(北杜市)長野県産の黒曜石が発見された天神堂遺跡などが代表的で、周辺地域に比べ密度は低いものの、周辺地域との人的移動を示す資料が発掘されている。

縄文時代草創期から前期には引き続き湧水が利用できる山麓部や富士北麓などに遺跡が分布し、後期旧石器から草創期への移行期にあたる神取遺跡(北杜市)や関東文化圏の影響が見られる池之元遺跡(富士吉田市)が出現する。中期には盆地にも進出し、大規模な集落遺跡である釈迦堂遺跡群(笛吹市、甲州市)や重要文化財に指定されている精巧な土器の出土した一の沢遺跡、豊富な生活遺物が出土している花鳥山遺跡などが出現し、縄文農耕論にも一石を投じた有孔鍔付土器など学史上注目されている遺物も出土している。また、盆地西部の西郡地域は釜無川の氾濫原であり考古遺跡は乏しいが、近年では精巧な土器や土偶が出土した鋳物師屋遺跡が発掘され、注目されている。

後晩期には地球的な寒冷化の影響を受けて遺跡数が減少するものの、石組や配石遺構など祭祀施設であると考えられている八ヶ岳南麓の金生遺跡(北杜市)や牛石遺跡(都留市)などが出現する。また、郡内地方の桂川流域では関東地方との交流が見られる遺物が出土している。

弥生時代には身洗沢遺跡金の尾遺跡などの集落遺跡があり、宮の前遺跡(韮崎市)では水田が確認されている。盆地南西部の曽根丘陵では東海地方経由で弥生文化が流入し、方形周溝墓が見られる上の平遺跡など古墳時代に至る遺跡がある。

古墳時代の4世紀後半には畿内で確立したヤマト王権と政治的接触を持っていたと考えられている。曽根丘陵では4世紀前半の前方後方墳である小平沢古墳をはじめ、4世紀後半には最大規模の甲斐銚子塚古墳岡銚子塚古墳などの有力首長クラスの前方後円墳が出現し、三角縁神獣鏡などの副葬品も出土している。5世紀には中道勢力が衰退し、古墳の造営は盆地各地へ拡散する。

古代

酒折宮

古代には律令制下において甲斐国が成立する。『日本後紀延暦16年条によれば甲斐東部の都留郡の帰属をめぐって隣接する相模国との間で争論があったという。甲斐国は五畿七道では東海道に属し、山梨・八代・巨摩・都留の甲斐四郡が成立。郡郷は『和名類聚抄』に31郷が記載されている。山梨・八代両郡は古代甲斐国の政治的中心地で、国府は山梨郡笛吹市春日居町に前期国府が存在し、八代郡の笛吹市御坂町に移転されたと考えられている。官道は東海道横走宿から分岐して都留郡を経て、甲府盆地に入り甲斐国府に至る甲斐路が存在していた。四郡のうち甲斐西部の巨摩郡は渡来人の入植により成立した郡であると考えられている。

一方、『古事記』『日本書紀』(記紀)に記される日本神話においてはヤマトタケル(倭建命、日本武尊)の東征において足柄山から甲斐へ入り、酒折宮(甲府市酒折)において老人と歌を交わす説話が残されている。記紀に載る日本神話には両書が成立した奈良時代の歴史認識が反映されているものと考えられているが、考古学的にも甲斐においては古墳後期の4世紀後半代から畿内の影響下にあったとみられ、酒折宮伝承にもヤマト王権と甲斐の在地豪族との関係が反映されているものと考えられている。足柄山から甲斐国へ至ったヤマトタケルの遠征ルートは古代の交通体系を明らかにする上でも注目されている。

大善寺

また、『続日本紀』においては甲斐国司の田辺史広足が黒毛の駿馬を朝廷に献上したという「甲斐の黒駒」に関する説話が記されている。『延喜式』によれば東国では甲斐をはじめ信濃・上野武蔵の四国に御牧が設置され馬産が行われていたことが記されている。駿河国正税帳長屋王家木簡などの出土文字資料からも朝廷への貢馬が確認されている。『延喜式』によれば甲斐には穂坂牧、真衣野牧柏前牧の三御牧が設置されていたという[12]

平安時代には市河荘八代荘などの荘園が成立し、国府所在地である甲府盆地東部では在庁官人である三枝氏が八代荘を勢力基盤とした。『長寛勘文』によれば王保2年(1162年)には三枝氏に打撃を与えた八代荘停廃事件が発生している。

平安時代後期には常陸国から源義清源清光が市河荘に配流された。義清、清光の子孫は甲府盆地の各地へ土着し、後に甲斐源氏となる。

中世

武田信玄像(高野山持明院本)
武田神社 拝殿(2014年5月8日撮影)

平安時代後期の治承4年(1180年)、以仁王令旨が諸国の源氏に下されると甲斐源氏の一族も平氏政権に対して挙兵する。甲斐源氏の一族は伊豆国源頼朝の挙兵と協調し、富士川の戦いなど治承・寿永の乱において活躍する。乱後、甲斐源氏の棟梁となった武田氏甲斐国守護となるが、甲斐源氏の一族は源頼朝の粛清を受け、衰退する。武田氏は中世には必ずしも甲斐守護を歴任していない。鎌倉幕府滅亡後に北条時行ら北条氏の残党が起こした中先代の乱までは北条方に属し、南北朝時代には建武政権から離反した足利尊氏に従った。

室町時代には、室町幕府鎌倉府の対立や、鎌倉府における鎌倉公方関東管領の対立など関東地方の騒乱の影響を受ける。応永23年(1416年)、鎌倉公方の足利持氏に対し、前関東管領の上杉禅秀が挙兵した上杉禅秀の乱では、甲斐守護・武田信満が禅秀方に加担し、滅亡する。これにより甲斐は守護不在状態となり、足利持氏は甲斐国人逸見有直を支持して室町幕府に対抗した。一方、室町幕府は武田信元、続いて武田信重を甲斐守護に任じ、守護代として跡部氏を派遣した。以後、甲斐では守護武田氏と有力国人や跡部氏との抗争が続く。

守護・武田信昌寛正5年(1464年)には跡部氏を排斥する。信昌は嫡男の信縄に家督を譲り、いったん隠居した。後に次男の油川信恵に家督を譲る意向を示し、信縄と信恵間の内訌が生じる。信縄の子・武田信虎永正5年(1508年)に信恵方を滅ぼし、国中地方の有力国人や都留郡(郡内地方)の国衆・小山田氏など従属させる。さらに信虎は駿河国の今川氏や信濃諏訪氏扇谷上杉家山内上杉家と同盟を結び、相模の後北条氏と敵対しつつ、信濃侵攻を開始した。また、信虎は従来の川田館(甲府市川田町)から甲府躑躅ヶ崎館(甲府市古府中町)に守護館を移転し、新たに城下町を整備し家臣団を集住させる。

都留郡では小山田氏が武田氏に臣従しつつも、中津森館、後に谷村館を本拠とした独自の領域支配を行った。河内領では穴山氏が同様に武田家臣となりつつ、下山館を本拠とした領域支配を行った。

信虎の子・武田晴信(信玄)は天文10年(1541年)に信虎を駿河へ追放することで家督を継承する。晴信は信虎の外交方針を転換し、信濃諏訪氏を滅ぼして諏訪郡を領国化する。さらに相模国の後北条氏と和睦を結ぶと、今川・北条間の河東の乱を調停し、三者の間で甲相駿三国同盟を成立させる。一方、信濃侵攻により山内上杉氏とは敵対する関係となり、信濃村上氏ら信濃国衆や越後国の長尾景虎(上杉謙信)と川中島の戦いを繰り広げる。

信濃をほぼ統一した後は西上野や今川領国への侵攻を行い、三河北部や遠江東部・北部、美濃恵那郡も出兵して、織田信長徳川家康と対抗した。また、信玄期に確立した大名権力により独自の領国支配が展開され、検地の実施や棟別諸役の整備、躑躅ヶ崎館を中心とする甲府の城下町整備、黒川金山湯之奥金山など近世まで稼働した甲州金山の開発、信玄堤の築造など治水事業が行われている。

信玄死去により家督を継いだ武田勝頼長篠の戦いに敗れて領国の動揺を招き、天正10年(1582年)3月、織田信長・徳川家康連合軍による甲州征伐戦国大名としての武田氏は滅亡した。また、勝頼から離反した郡内領主の小山田信茂は織田氏に出仕するが処刑され、小山田氏も滅亡する。

近世

甲府城跡
甲府城跡
徳島堰
徳島堰
身延山久遠寺
身延山久遠寺

武田氏滅亡後、甲斐一国と信濃諏訪郡は織田家臣の河尻秀隆が支配するが、同年6月の本能寺の変により発生した一揆で秀隆は横死。武田遺領を巡る天正壬午の乱では徳川家康と相模国の北条氏直が甲斐へ侵攻して八ヶ岳南麓・七里岩地域において対峙するも、同年10月の徳川・北条同盟の成立により後北条氏は撤兵。甲斐は徳川氏が領した。

その後、家康は豊臣秀吉に帰服。後北条氏滅亡後の天正18年(1590年)に関東へ移封され、甲斐国には浅野長政ら豊臣大名が入った。豊臣政権下で甲斐は東国の家康に対する拠点として重視され、新たに甲府城が築城されて新城下町が整備され、甲斐国内の検地も行われた。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後には、勝利した徳川家康が主導して大名の全国的な再配置が行われた。甲斐では浅野氏が和歌山へ移封され、再び徳川氏による直轄支配が行われた。甲斐国は関東防衛の要所として重視され、江戸時代初期、国中には将軍直系(甲府藩)、郡内には譜代大名谷村藩)が配置された。甲府藩には甲府徳川家が入封し、藩政機構が整えられた。宝永元年(1704年)に綱豊(徳川家宣)が将軍後継になると、川越藩柳沢吉保が受封し、吉保の子吉里は甲府藩主で初めて国元へ入っている。ほか、甲斐には旗本領も存在していた。

享保の改革においては江戸幕府直轄領の整備が行われ、享保9年(1724年)に吉里が大和郡山藩に転封されると甲斐は幕府直轄領化され、谷村藩も秋元氏の転封後は直轄領化された。甲府町方は甲府勤番、在方は甲府代官所をはじめとする三分代官による支配となり、郡内は石和代官所の出張陣屋である谷村代官所が設置された。延享3年(1746年)には御三卿の賄領がおかれ、うち田安家領のみは幕末まで存続した。

近世甲斐は甲府城下町、谷村城下町の城下町のほか在郷町身延山久遠寺門前町や富士北麓の吉田・川口の御師町など都市や町場が発達。、甲州街道駿州往還佐久往還青梅往還をはじめとする諸街道が整備された。江戸初期には角倉了以による富士川の開削工事が行われて富士川舟運中馬による陸上輸送が発展し、江戸後期には甲斐・信濃の年貢米の廻米輸送が行われた。[13]

近世には領主権力の確立により治水や用水路の開削が行われ、釜無川・御勅使川の治水や徳島堰の開削、郡内での谷村大堰新倉掘抜の開削などが行われ、甲府城下でも甲府上水が整備される。治水の進捗に伴い在方では新田開発が進み、養蚕織物など産業が発達した。甲府盆地では一般に米麦栽培に商品作物の栽培、農閑期の行商や大工などの農間余業を組み合わせた生業形態が一般的であった。山地が多い甲斐の山村では、林業や狩猟、製炭採取、鉱山経営などの山の生業が発達し、特に郡内では平坦地が少ないため織物の生産や街道沿いでの駄賃稼ぎの占める割合が高い。こうした生業的特徴から甲斐では水利を巡る水論や山の用益を巡る山論が多発している。

また、甲斐では金納税制である大小切税法甲州金甲州枡の甲州三方が独自の国制として存在し、領主側の廃止や改正に対して領民は存置を求め抵抗している。また、領主側との衝突や災害・凶作などに伴う百姓一揆も発生し、米倉騒動太枡騒動、江戸後期には郡内に発する百姓一揆から無宿・悪党を巻き込み一国規模の騒動となった天保騒動など大規模な百姓一揆も発生した。

文化面では甲府城下町の発達により遊芸文化が興隆し、甲府藩時代には大名文化、江戸後期には町人文化が発達する。甲府勤番・勤番士は学問的関心を持ち、甲斐国の総合地誌である『甲斐国志』の編纂や勤番士による『裏見寒話』など地誌の編纂が行われ、勤番士の学問所である徽典館も開かれた。甲府では町人亀屋与兵衛が芝居小屋である亀屋座を開業し、歌舞伎や相撲、人形浄瑠璃などの諸芸興行を行い、1841年天保12年)には甲府町人が江戸の人気浮世絵師である歌川広重を招き、城下の大通りを広重ら人気浮世絵師の幕絵で飾る甲府道祖神祭礼を創始した。ほか、俳諧和算なども発達する。

また、武田信玄は近世から甲斐領民の尊崇を集め、武田氏館跡や墓所、武田氏に関係する寺社などが古跡として成立した。近世には軍学書である『甲陽軍鑑』が成立し、関係書を含めて武家・庶民の間でも広く読まれ影響力を及ぼし、武田家に関する文学や浮世絵なども製作された。

江戸後期は東国に特徴的な農村の荒廃から無宿・博徒が増加し、竹居安五郎黒駒勝蔵など甲州博徒が台頭した。幕末開国#日本の開国により横浜港開港されると、甲州屋忠右衛門若尾逸平ら在方商人が甲州産物を移出して富を築いた。若尾逸平は甲府において製糸業に着手して新興商人として台頭し、明治時代には甲州財閥を形成する。

明治維新から終戦まで

藤村紫朗
藤村紫朗
睦沢学校(現・藤村記念館)
睦沢学校(現・藤村記念館)

慶応4年(明治元年、1868年)3月、甲府城へ入った新政府の板垣退助率いる甲州街道軍と、近藤勇率いる旧幕府軍の甲陽鎮撫隊新選組)が勝沼甲州市の一部)大善寺で激突した(甲州勝沼の戦い)。旧幕府軍は駆逐され、甲州鎮撫府が設置された。

同年10月19日旧暦9月4日)、甲斐国内に府中県県庁所在地は山梨郡甲府)、市川県石和県が設置され、12月11日旧暦10月28日)にこれら3県を統合して甲斐府が設置された。明治2年(1869年8月27日旧暦7月20日)、「」の呼称が京都府東京府大阪府に限定されたことから、甲斐府は甲府県と改称した。

明治3年(1870年)5月に田安領を併合し、明治4年(1871年8月29日旧暦7月14日)の廃藩置県後も甲府県は存続したが、同年10月末(旧暦)に始まる第1次府県統合により、旧韮山代官所を引き継いだ韮山県の甲斐国内管轄区域などを統合して、12月31日旧暦11月20日)に甲斐国全域を管轄区域とする山梨県が発足した。県庁所在地は引き続き山梨郡甲府、初代県令には土肥実匡が任ぜられた。1873年(明治6年)に着任した藤村紫朗殖産興業政策により、製糸業の勧業や道路、金融機関の整備が行われた。特に青梅街道の改築など道路整備を推し進めたことから、藤村は「道路県令」とも呼ばれている。[14]

1909年(明治42年)には陸軍甲府連隊(歩兵第49連隊)が設置された。太平洋戦争中には疎開地でもあったが、1945年(昭和20年)7月には甲府空襲に遭い、市街は灰燼と帰した。

また、明治時代には、1882年、1885年、1907年、1910年と大水害に見舞われ、大きな被害を受けた[4]。これには、地形的理由だけでなく、林野の強権的官有化による里山の荒廃や急激な開発という人為的理由も一因した[4]。1873年の地租改正後、林野の官民有区分が行なわれ、県下の入会林野の99%以上が1881年に官有とされ、1889年には皇室財産となった[4]。これにより地元民は草木採取に際し面倒な手続きを強いられることとなり、盗伐や山火事が頻発して里山の荒廃に繋がった[4]。さらに、明治期日本の主要産品である絹織物生産のためにの餌となる桑畑の開墾や、薪炭材調達を目的として山林が徹底的に伐採された[4]。こうしたことが大災害に繋がったとして、1911年に御料林は県に無償返還されて恩賜県有林となり、入会権などは官有前に戻された[4]

戦後から現在まで

※日本の占領時代については「連合国軍占領下の日本」を参照。 終戦後、1945年(昭和20年)9月にはアメリカ軍第8軍の部隊が甲府へ進駐。年末には戦闘部隊は引き上げ、少数の山梨県軍政部が県庁周辺の洋風建築を接収して県内の監視を行う。県内人口は復員兵や疎開者の帰還で増加し、戦時期の山林荒廃から災害被害もあり食糧事情は悪化。当局により、新潟県からの移入米の配給や米軍の食糧放出など対策を講じるが食糧難はしばらく続き、ヤミ米が流通した。

連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による改革を受け、県内でも政党活動や新聞の発行などが再開される。1946年(昭和21年)には内務省官僚による地方支配に代わり公選知事が導入され、1947年(昭和22年)の第一回県知事選では保守派合同の推薦で吉江勝保が当選し、初代公選知事となる。吉江は1948年(昭和23年)2月に食料増産や山林復旧など10大政策を掲げたものの、財政難などの制約もあり産業基盤の復興もままならず、社会福祉制度も構想のみに留まった。

1951年(昭和26年)の知事選では民主党代議士天野久が擁立され、吉江知事を破り当選。天野「富める山梨」を掲げ、利水に乏しい甲府盆地西部の御勅使川扇状地を開発する野呂川総合開発に着手し、計画は国の援助を受け上水道や県営発電所の建設が行われた。また、新笹子トンネル建設による幹線道路の整備は高度経済成長期とも重なり、果樹農業や観光の振興にも繋がった。一方で、天野県政期には開発による災害があり、北富士演習場問題が発生する。1959年と1966年に山梨県は台風により大規模な被害を受けるが、戦時中の治山治水事業の停滞と戦後の乱開発が被害拡大を招いたとされる[4]

1967年(昭和42年)に天野知事を破り3代知事となった田辺国男は「健康山梨」を掲げ、一村一工場誘致を方針に工業団地造成や幹線道路整備を行う一方で、開発により環境破壊が顕著となっていたため環境保護にも配慮したグリーン・プランを提唱する。一方で連峰スカイライン構想を具体化させると批判が相次ぎ、北富士演習場問題の膠着やオイルショックの影響による不況も重なって巨大開発構想は断念された。文化事業では、1978年(昭和53年)にはフランスの画家ミレーの「種をまく人」を二億円で落札・購入した山梨県立美術館を創設。

田辺県政は日本経済の好景気化も受け4期目を目指したが、中央政界で前天野知事を支持した自民党政治家金丸信が影響力を強めると県議会においても金丸派が最大派閥となり、これに社会党県連が4選阻止のため提携し、副知事の望月幸明を擁立。1979年(昭和54年)の県知事選では田辺知事を破り、望月が当選した。望月県政は金丸信の後見を受けて県議会でのオール与党体制を確立し、北富士演習場問題の小康やバブル景気の後押しを受け、1986年(昭和61年)のかいじ国体の開催や県有林の高度活用、リゾート施設の造成、リニア実験線の誘致などを勧めた。

地方病流行終息の碑

1965年(昭和40年)までに県内の中央本線が複線・電化され、1982年(昭和57年)には中央自動車道が全線開通。また石和温泉富士五湖清里などの観光地が整備され、首都圏から日帰り~短期旅行できる観光地としても発展した。

バブル景気が崩壊すると県内の景気も一気に低下。甲府中心地の地価が15年連続下落し、また清里などのリゾート地も衰退する。一方で郊外のベッドタウンではイトーヨーカドーアピタといったショッピングセンターが次々と開業し、甲府西武ダイエー湯村SCが撤退して停滞する甲府中心街に対し発展を遂げている。

望月知事が4選を断念し、1992年(平成4年)に望月県政を批判して金丸派候補を破り当選した天野建知事(父は上記の天野久)は財政難の中公共工事の見直しを行いつつ環境行政を重視する「幸住県やまなし」事業を実施。山梨県立博物館の建設推進や排水路整備の推進をおこない、1996年(平成8年)には長年県民を苦しめてきた日本住血吸虫地方病)の終息宣言を行う。

天野知事の後、2003年(平成15年)からは前甲府市長山本栄彦が知事に就任。バブル崩壊後手付かずだった甲府駅北口の整備や中部横断自動車道増穂IC以南の着工を推進。しかし県政の混乱が発生し、2007年(平成19年)の選挙で横内正明に敗れ、山本県政は1期で終焉した。

横内県政では、甲府市中心部の再開発や「トップセールス」として山梨県の特産物の海外展開を行なう。この間、世界金融危機東日本大震災が発生し、特に山梨の景況感は冷え込み全国最下位が続いている。また人口もこの時期から急減しており、これらの問題が大きな課題となっている。

2003年(平成15年)より平成の大合併が行われ、64あった市町村が27(2010年(平成22年)3月時点)まで集約された。

人口

山梨県市町村人口増減率分布図(2005年度と2010年度国勢調査から算出)
増加
  2.5 - 4.99 %
  0.0 - 2.49 %
減少
  0.0 - 2.5 %
  2.5 - 5.0 %
  5.0 - 7.5 %
  7.5 - 10.0 %
  10.0 % 以上
Demography19000.svg
山梨県と全国の年齢別人口分布(2005年) 山梨県の年齢・男女別人口分布(2005年)
紫色 ― 山梨県
緑色 ― 日本全国
青色 ― 男性
赤色 ― 女性
山梨県(に相当する地域)の人口の推移
総務省統計局 国勢調査より

都市

山梨県内 市別人口ランキング
県内順位 都市 地域区分 人口 県内順位 都市 地域区分 人口
1 甲府市 国中地方 189,589人 6 北杜市 国中地方 44,263人
2 甲斐市 国中地方 75,225人 7 山梨市 国中地方 33,810人
3 南アルプス市 国中地方 70,129人 8 都留市 郡内地方 31,174人
4 笛吹市 国中地方 68,616人 9 中央市 国中地方 30,865人
5 富士吉田市 郡内地方 47,703人 10 甲州市 国中地方 30,254人
2017年12月 時点


山梨県内市別人口密度ランキング(2016年(平成28年)時点)
  1. 甲斐市(1,040人/km2
  2. 中央市(980人/km2
  3. 甲府市(905人/km2
  4. 富士吉田市(401人/km2
  5. 笛吹市(344人/km2

政治・行政

国政

衆議院小選挙区は2013年の区割り改正で、3から2に減少。参議院では、全県で1区を構成。

県政