板垣 退助
いたがき たいすけ
ITAGAKI Taisuke.jpg
1906年頃(70歳頃)
生年月日 1837年5月21日
天保8年4月17日
出生地 日本の旗 日本 土佐国高知城下中島町
(現:高知県高知市
没年月日 (1919-07-16) 1919年7月16日(82歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京府東京市
前職 武士土佐藩士
所属政党自由党→)
愛国公党→)
自由党→)
憲政党
称号 従一位
勲一等旭日桐花大綬章
伯爵
配偶者 林益之丞政護妹(正妻)
中山弥平治秀雅次女(継妻)
板垣鈴(継妻)
板垣絹子(継妻)
板垣清子(継妻)
子女 板垣鉾太郎(長男)
乾正士(次男)
板垣孫三郎(三男)
板垣正實(四男)
乾六一(五男)
片岡兵子(長女)
宮地軍子(次女)
小川腕子(三女)
浅野千代子(四女)
小山良子(五女)
親族 乾正清(五世祖父)
乾直建(高祖父)
乾正聰(曾祖父)
乾信武(祖父)
乾正成(父)
片岡光房(娘婿)
宮地茂春(娘婿)
小川一眞(娘婿)
浅野総一郎(娘婿)
小山鞆絵(娘婿)
板垣守正(孫)
板垣正貫(孫)
宮地茂秋(孫)
杉崎光世(曾孫)

日本の旗 第13代 内務大臣
内閣 第1次大隈内閣
在任期間 1898年6月30日 - 1898年11月8日

日本の旗 第10代 内務大臣
内閣 第2次伊藤内閣
第2次松方内閣
在任期間 1896年4月14日 - 1896年9月20日
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板垣 退助(いたがき たいすけ、天保8年4月17日1837年5月21日) - 大正8年(1919年7月16日)は、日本武士土佐藩士)、政治家幼名猪之助。退助は通称は初め正躬(まさみ)、のち正形(まさかた)。無形(むけい)。栄典従一位勲一等伯爵土佐三伯の1人(ほかに後藤象二郎佐々木高行)。明治維新の元勲自由民権運動の主導者として知られ、「庶民派」の政治家として国民から圧倒的な支持を受けていた。薨去後も民主政治の草分けとして人気が高く、第二次世界大戦後は50銭政府紙幣日本銀行券B100円券に肖像が用いられた。

生涯

生い立ち

生誕地(高知県高知市

天保8年4月17日1837年5月21日)、土佐藩上士馬廻格・300乾正成の嫡男として、高知城下中島町(現・高知県高知市本町通2丁目)に生まれた。なお、乾家は武田信玄の重臣であった板垣信方を祖とした家柄である(退助の復姓については後述)。後藤象二郎とは竹馬の友である。坂本龍馬とは親戚[1]にあたるが、退助は同じ土佐藩の中岡慎太郎のほうが気脈が通じたらしく交誼がよく知られている。しかし、龍馬の桂小五郎宛ての書簡には乾退助を紹介する記述があり、また退助も龍馬の脱藩の赦免に奔走するなど、面識があり互いに尊敬しあう関係であったようである[注 1]。 上士と下士の身分が確立されていた土佐藩の中で谷干城佐々木高行と同じく、下士に対し寛大だった[注 2]

少年期は腕白そのものであったという。退助は晩年、自分の少年時代を振り返り「母が予を戒めて云ふに喧嘩しても弱い者を苛めてはならぬ、喧嘩に負けて帰れば母叱って直ぐに門に入れない。成長すると、また仮りにも卑怯な挙動をして祖先の家名を汚してはならぬと教えられた」と述懐している[3]

幕末

安政3年(1856年8月8日、高知城下の四ヶ村(小高坂・潮江・下知・江ノ口)の禁足を命ぜられ神田村に蟄居し、ここで身分の上下を問わず庶人と交わる機会を得る。一時は家督相続すら危ぶまれたが、父・正成の死後、家禄を220石に減ぜられて家督相続を許された。

文久元年(1861年)10月25日、江戸留守居役兼軍備御用を仰付けられ、11月21日に高知を出て江戸へ向かう。文久2年(1862年)6月、小笠原唯八とともに、佐々木高行に会い勤皇に盡忠することを誓う。10月17日、山内容堂の御前において、寺村道成と時勢について対論に及び、尊皇攘夷を唱える。文久3年(1863年)1月4日、高輪の薩摩藩邸で、大久保一蔵(のちの利通)に会う。1月11日、容堂に随行して上洛のため品川を出帆するが、悪天候により下田港に漂着する。1月15日、容堂の本陣に勝麟太郎(のちの海舟)を招聘し坂本龍馬の脱藩を赦すことを協議。4月12日、土佐に帰藩する。

慶応元年(1865年)1月14日、洋式騎兵術修行を命ぜられ、江戸で幕臣・倉橋長門守(騎兵頭)や深尾政五郎[注 3](騎兵指図役頭取)らにオランダ式騎兵術を学ぶ[4]。慶応2年(1866年)11月、薩摩藩士の吉井友実らと交流する。慶応3年(1867年)2月、水戸浪士の中村勇吉相楽総三らを独断で江戸の土佐藩邸に匿う。

薩土密約を締結

退助は、土佐藩の上士としては珍しく武力倒幕を一貫して主張していた(当時の土佐藩上士は公議政体論が主流)。慶応3年(1867年)5月には上洛し、前月に脱藩の罪を許されたばかりの中岡慎太郎の手紙を受けて、5月18日、京都の料亭「近安楼」で、福岡藤次船越洋之助らとともに中岡と会見し武力討幕を議した。さらに5月21日、中岡の仲介によって、京都の小松清廉邸で、土佐藩の谷干城・毛利恭助らとともに薩摩藩の西郷吉之助(のちの隆盛)らと武力討幕を議し、退助は「戦となれば、藩論の如何にかかわらず、必ず土佐藩兵を率いて薩摩藩に合流する」と決意を語り、薩土密約を結ぶ。翌日、退助は山内容堂へ拝謁して、時勢が武力討幕へ向かっていることを説き、江戸の土佐藩邸に水戸浪士を秘かに匿っている事実を告げる。5月27日、薩土密約に基づき大坂でアルミニー銃300挺を購入し、6月2日に土佐に帰国。藩の大監察に復職し、7月22日には軍制改革を指令する。8月20日、土佐藩よりアメリカ合衆国派遣の内命を受ける(のち中止)。9月6日、土佐勤王党弾圧で投獄されていた島村寿之助安岡覚之助らを釈放する。これに応じ、七郡勤王党幹部らが議して、退助を盟主として討幕挙兵の実行を決議する。10月、土佐藩邸に匿っていた水戸浪士らを薩摩藩邸へ移す。

戊辰戦争で活躍

迅衝隊(前列左から伴権太夫、板垣退助(中央)、谷乙猪(少年)、山地忠七。 中列、谷神兵衛谷干城(襟巻をして刀を持つ男性)、山田清廉吉本平之助祐雄。 後列、片岡健吉真辺正精、西山榮、北村重頼、別府彦九郎)
日光東照宮板垣退助像(写真は戦後に復元されたもの) 銅像題字の揮毫は徳川宗家第16代当主・徳川家達による

戊辰戦争では土佐勤王党の流れをくむ隊士を集めた迅衝隊総督として土佐藩兵を率い、東山道先鋒総督府の参謀として従軍した。天領である甲府城の掌握目前の美濃大垣に向けて出発した慶応4年(1868年)2月14日が祖先・板垣信方の没後320年にあたるため、「甲斐源氏の流れを汲む旧武田家家臣の板垣氏の末裔であることを示して甲斐国民衆の支持を得よ」と、岩倉具視らの助言を得て、板垣氏に姓を復した。

新選組を撃破

この策が講じて甲州勝沼の戦いで大久保大和(近藤勇)の率いる新選組を撃破したばかりではなく、その後に江戸に転戦した際も、旧武田家臣が多く召し抱えられていた八王子千人同心たちの心を懐柔させるのにも絶大な効果があった。

三春藩を無血開城

東北戦争では、三春藩を無血開城させ、二本松藩仙台藩会津藩などを攻略するなどの軍功によって賞典禄1,000石を賜っている。明治元年(1868年)12月には藩陸軍総督となり、家老格に進んで家禄600石に加増される。

旧幕側の名誉回復に尽力

官軍の将でありながら、維新後すぐから賊軍となった会津藩の心情を慮って名誉恢復に努めるなど、徹底して公正な価値観の持ち主であったため、多くの会津人が維新後、感謝の気持ちから土佐を訪れている。

明治政府の要職を歴任

朝鮮国の不義を糺すために立ちあがった板垣退助らの征韓議論。(1877年明治10年)鈴木年基作)

明治2年(1869年)、木戸孝允、西郷隆盛、大隈重信とともに参与に就任する。明治3年(1870年)に高知藩の大参事となり「人民平均の理」を発令。明治4年(1871年)に参議となる。

明治6年(1873年)、書契問題に端を発する度重なる朝鮮国の無礼に世論が沸騰し、板垣は率先して征韓論を主張するが、欧米視察から帰国した岩倉具視ら穏健派によって閣議決定を反故にされる(征韓論争)。これに激憤した板垣は西郷隆盛らとともに下野。世論もこれを圧倒的に支持し、板垣・西郷に倣って職を辞する官僚が600名あまりに及び、板垣と土佐派の官僚が土佐で自由民権を唱える契機となった(明治六年政変)。

自由民権運動

大阪会議開催の地にある大久保利通(上左)・木戸孝允(上中央)・板垣退助(上右)・伊藤博文(下左)・井上馨(下右)のレリーフ
大阪府大阪市中央区北浜
板垣退助の岐阜遭難事件

下野後、退助は五箇条の御誓文の文言「万機公論に決すべし」を根拠に、明治7年(1874年)に愛国公党を結成し、後藤象二郎らと左院に民撰議院設立建白書を提出したが、却下された。また、高知に立志社を設立した。明治8年(1875年)、大阪会議によって参議に復帰したが、民衆の意見が反映される議会制政治を目指し、間もなく辞して再び自由民権運動に身を投じた。

明治14年(1881年)、10年後に帝国議会を開設するという国会開設の詔が出されたのを機に、自由党を結成して総理(党首)となった。以後、全国を遊説して回り、党勢拡大に努めていた明治15年(1882年)4月、岐阜で遊説中に暴漢・相原尚褧に襲われ負傷した(岐阜事件)。その際、板垣は襲われたあとに竹内綱に抱きかかえられつつ起き上がり、出血しながら「吾死スルトモ自由ハ死セン」と言い [注 4]、これがやがて「板垣死すとも自由は死せず」という表現で広く伝わることになった。この事件の際、板垣は当時医者だった後藤新平の診療を受けており、後藤は「閣下、御本懐でございましょう」と述べ、療養後に彼の政才を見抜いた板垣は「彼を政治家にできないのが残念だ」と語っている[6]。 11月、後藤象二郎と洋行し、翌年の6月に帰国した。明治17年(1884年)10月、自由民権運動の激化で加波山事件が起き、自由党を一旦解党した。

自由民権運動家の立場から、華族制度には消極的な立場であり、授爵の勅を二度断っていたが、明治20年(1887年)5月、三顧之礼(三度の拝辞は不敬にあたるという故事)を周囲から諭され、三度目にしてやむなく伯爵位を授爵した。その結果、衆議院議員となることはなく(華族当主には衆院選の被選挙権がない)、また貴族院でも伯爵議員の互選にも勅選議員の任命も辞退したため、帝国議会に議席を持つことはなかった。

帝国議会開設以後

大同団結運動の分裂後、帝国議会開設を控えて高知にいた板垣は林有造らとともに愛国公党を再び組織し、第1回衆議院議員総選挙に対応した。明治23年(1890年)の帝国議会開設後には河野広中大井憲太郎らとともに旧自由党各派(愛国公党、自由党大同倶楽部、九州同志会)を統合して立憲自由党を再興した。翌年には自由党に改称して党総理に就任した。

明治29年(1896年)、議会内で孤立していた自由党は第2次伊藤内閣と協力の道を歩み、板垣は内務大臣として入閣。続く第2次松方内閣においても留任したがすぐに辞任した。明治30年(1897年)3月、自由党総理を辞任している。

明治31年(1898年)、対立していた大隈重信の進歩党と合同して憲政党を組織し、日本初の政党内閣である第1次大隈内閣に内務大臣として入閣する。そのためこの内閣は通称・隈板内閣(わいはんないかく、大隈の「隈」と板垣の「板」を合わせたもの)とも呼ばれる。しかし、内閣は内紛が激しく、4か月で総辞職せざるを得なくなる。明治33年(1900年)、立憲政友会の創立とともに政界を引退した。

晩年

政界引退後は、明治37年(1904年)に機関誌『友愛』を創刊したり、同40年(1907年)には全国の華族に書面で華族の世襲禁止を問う活動を行った。大正2年(1913年)2月に肥田琢司を中心に結成された立憲青年自由党の相談役に就いた。大正3年(1914年)には二度台湾を訪問し、台湾同化会の設立に携わった。

大正8年(1919年)7月16日、薨去。享年83(満82歳没)。法名は邦光院殿賢徳道圓大居士。なお、「一代華族論」という主張から、嫡男・鉾太郎は自ら廃嫡し家督相続を遅らせたため板垣家は華族の栄典を喪失した[7][注 5]

逸話

50銭政府紙幣
日本銀行券B100円券
  • 明治4年(1871年)、武田信玄の300回忌法要の際に、松本楓湖の画による武田二十四将の肖像が武田氏一族の菩提寺である甲斐恵林寺に奉納される際、各武将の直系子孫が画賛を書くことになり、依頼されて退助は板垣信方の肖像画に直筆で画賛を書いた。退助は揮毫を依頼されてもほとんど断っており、確実に自筆と判明している2点(1点は「死生亦大矣」の書)のうちの一つであり、数少ない板垣退助の直筆史料として、現在は財団法人歴史博物館信玄公宝物館の所蔵となっている。
  • 少年時代、「蝦蟇の油を塗ると川に潜っても呼吸ができる」との言い伝えを信じ、後藤象二郎と一緒に、蛙を捕獲して釜で煮て蝦蟇の油を作り、鏡川を潜水したが呼吸ができず、蝦蟇の油の効力が迷信であることを知る。これによって迷信を疑うようになり、実証主義に転じて、翌日今度は、神社のお守りをに捨ててみて、神罰が本当に起こるのか試したことがある(結果、何事も起こらなかった)。同様の主旨で、退助が神田村(こうだむら)に蟄居していたとき、当時の人が食べ合わせ(「うなぎと梅干」「てんぷらと西瓜」など)を食べると死ぬと信じていた迷信に対して、自ら人を集めて食べて無害なことを実証したことがある。
  • 武市瑞山の命令で自分を斬りにきた中岡慎太郎を見透かし、暗殺を留まらせた。そのとき、中岡と意気投合し、ともに倒幕に身を投じることとなった。
  • 自らの命を狙われた岐阜遭難事件の犯人である相原尚褧に対して、特赦嘆願書を明治天皇に提出した結果、相原は特赦となり、改心した相原は退助に謝罪に訪れている[8]
  • 家屋敷を売り払い、私財をなげうって自由民権運動に身を投じたため晩年は金銭的に困窮していたと伝えられている。明治44年(1911年)ごろ、人を介して密かに杉山茂丸を売ろうとした。茂丸が鑑定すると、備前長船(大宮派)の初代「盛重」(南北朝時代の作)という名刀であった。茂丸は「これはどこで手に入れたのか?」と刀を持ち込んだ人に問うと、最初はためらったものの「実は板垣伯から君(茂丸)を名指しで、『買い取ってもらうように』と頼まれて持参した」と打ち明けられた。驚いた茂丸は「この刀は伯が維新の際にその功により、拝領したものだと聞いているが…」と嘆息するエピソードがある[9]。この後、杉山は「板垣ほどの者がこれほど困窮しているのだから」と山縣有朋に説いて天皇や元老から救援金が出るようはからった。
  • 市島謙吉 「昔改進党時代に、常用で板垣伯を訪ねたことがある。当時の伯の住所は芝公園内の第何号地という様な分り悪い所にあった。辛うじて番号を尋ね当てたが、さてその家が如何にもみすぼらしいので、自由党総理の家とは思えぬ。そこで念の為その家に就いて問うて見ると、矢張り伯の家であった。下駄の三足も並ぶと一杯になる入口に障子が二枚ある。どうしても下等の判任官の住居としか見えぬ。下駄脱から御免というて取次を頼むと、中でお上りという声がする。戸を開けると、直ぐそこに伯が客と対談中で、今上れと言われたのが主人の伯であったのに一驚を喫した。伯は無造作に応接されて、用は立ちどころに弁じたが、一方改進党総理大隈伯の殿様振りと板垣伯の生活振りが余りに懸隔あるので案外に感じた」[10]
  • 宣教師・フルベッキが高知に宣教をするにあたって紹介し、同郷の片岡健吉坂本直寛の受洗などに多大な影響を与えたが、退助自身はキリスト教には入信しなかった。高知の板垣家歴代墓所には、各々「十字」が刻まれているため、クリスチャンだったと誤解する人がいるが、これは家紋であり、板垣家の代々の宗旨は曹洞宗である。菩提寺は、東京・青松寺)。
  • 後藤象二郎とともに日本人としてはきわめて早い時期の(1896年以前の)ルイ・ヴィトンのトランクを所持していた[11]立憲政治視察のため後藤象二郎と渡欧した1882年から1883年の間に購入したとされる)。なお初めて顧客になったのが後藤と板垣であると長らく信じられてきたが、実際には板垣たちの渡欧よりも5年前の1878年鮫島尚信(在仏特命全権公使)と中野健明(一等書記官)が購入していたことが当時の顧客名簿から判明している。
  • 退助の曾孫の家に保管されていた、明治2年(

    柔術呑敵流小具足術本山団蔵に学んだ。

    板垣退助は、明治15年(1882年)に岐阜で相原尚褧に襲われた際、とっさに呑敵流当身で反撃をした。敵の心臓を狙って肘で当身をしたが、力を入れすぎたために下にずれて腹部に当たった。のちの取り調べで相原尚褧が警察に痛みを訴えたため、調べてみると脇腹が黒いあざになっていたという。

    岐阜事件のあと、板垣は命が助かったのは師のおかげと思い、本山団蔵に贈り物をしてこのことを話したところ、本山団蔵は板垣に教えた武術が実地に功を奏したことを喜び呑敵流皆伝免状を授けたという。

    相伝系譜

    吉里呑敵齋信武 - 馬渕嘉平正保 - 本山団蔵重隆 - 板垣退助

    武術

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