こうふし
甲府市
愛宕山から甲府市街と南アルプスを臨む 酒折宮甲斐善光寺昇仙峡 躑躅ヶ崎館信玄公祭り 甲府盆地の夜景甲府鳥もつ煮 中銀スタ
甲府市旗 甲府市章
甲府市旗
1906年10月13日制定
甲府市章
1906年10月13日制定
日本の旗 日本
地方 中部地方甲信越地方
都道府県 山梨県
団体コード 19201-5
法人番号 1000020192015
面積 212.47km2
総人口 189,589[編集]
推計人口、2018年10月1日)
人口密度 892人/km2
隣接自治体 甲斐市山梨市笛吹市北杜市中央市中巨摩郡昭和町南都留郡富士河口湖町西八代郡市川三郷町南巨摩郡身延町
長野県南佐久郡川上村
市の木 カシ
市の花 ナデシコ
市の鳥 カワセミ
甲府市役所
市長 樋口雄一
所在地 400-8585
山梨県甲府市丸の内1丁目18番1号
北緯35度39分43.7秒東経138度34分5.6秒座標: 北緯35度39分43.7秒 東経138度34分5.6秒
甲府市役所
外部リンク 甲府市ホームページ

甲府市位置図

― 市 / ― 町 / ― 村

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甲府城より北側を撮影
甲府城より北側を撮影
甲府城より南側を撮影
甲府城より南側を撮影

甲府市(こうふし)は、山梨県の中部に位置する同県の県庁所在地

市域は山梨県の中央を南北に三日月形に縦断しており、市街中心部は甲府盆地の中央北寄りに位置する。山梨県は首都圏整備法上の首都圏に属するであり、その位置関係から東の関東地方への志向性が強い。

甲府という名称は、1519年永正16年)に甲斐国守護大名武田信虎が、居館を石和(現在の笛吹市石和町)、次いで川田(現在の甲府市川田町)から躑躅ヶ崎館(現在の武田神社・甲府市古府中町)へ移した際に、斐国の中という意味から甲府と命名したことに始まるものである(律令制に基づく国衙が置かれたわけではない)。戦国時代には大名領国を形成した武田氏の本拠地となり、武田氏滅亡後は徳川氏や豊臣系大名浅野氏の甲斐国経営の中心となり、国中地域や甲斐国の政治的中心地と位置付けられる。江戸時代には江戸の西方の守りの要として重要視され、また甲州街道宿場町としても盛えた。近年では、宝石研磨産業が盛んである。

2000年平成12年)11月1日特例市に指定され、現在は施行時特例市であるが、2019年(平成31年)4月中核市移行予定。2018年4月現在、全国の県庁所在地の中で人口が最も少ない。

地理

市域は甲府盆地の中央部を南北に縦断する形で位置しており、周囲を奥秩父山塊御坂山地南アルプスなどの山々に360度囲まれたその地形を1939年昭和14年)の一時期、市内に住んだ太宰治は、著書「新樹の言葉」の中で、「シルクハツトを倒(さか)さまにして、その帽子の底に、小さい小さい旗を立てた、それが甲府だと思えば、間違いない」と表現した[1]。市街中心部の標高は約250mから300mであるが、市域全体の標高差は大きく、最低部は市域南部の笛吹川付近の標高約245m、最高部は市域最北端、長野県川上村との境界にある金峰山の標高2,599mと実に標高差は2,350mに達する。市域北側の大半は秩父多摩甲斐国立公園に属し、奇岩と渓谷美で知られる御岳昇仙峡(国の特別名勝)は山梨県を代表する観光地である。

愛宕山より甲府市街と南アルプスを望む。2012年11月撮影。

河川

湖沼

気候

甲府
雨温図説明
123456789101112
 
 
40
 
9
-2
 
 
46
 
10
-1
 
 
88
 
14
3
 
 
78
 
20
8
 
 
86
 
25
13
 
 
123
 
27
18
 
 
133
 
31
22
 
 
150
 
33
23
 
 
180
 
28
19
 
 
125
 
22
12
 
 
55
 
16
6
 
 
32
 
11
-0
気温(°C
総降水量(mm)
出典:気象庁

盆地の中に位置するため夏と冬で寒暖の差が非常に激しく、夏は暑く、冬は寒いが、地理的条件の影響で標高の割りに平均気温は高めである。年間降水量は日本の中では少ない方である。 気候は中央高地式気候に区分されるが、夏季には日本有数の酷暑となり、たびたび猛暑日に見舞われる。最高気温がニュースになることも少なくないが、朝晩は気温が下がり熱帯夜になる日は少ない。2013年平成25年)8月10日甲府地方気象台で観測された40.7℃は日本の気象観測史上、日最高気温歴代5位である[2]

冬季は周囲の高い山脈が北方からの寒気の流入を防ぎ、朝晩は冷え込むものの、日中は比較的暖かい。朝晩は放射冷却現象の影響で冷え込むが、標高が比較的高いわりには平均最低気温は高い。同気象台で1921年大正10年)1月16日に観測された氷点下19.5℃が甲府での最低気温であるが、近年は温暖化・都市化により冬季の最低気温は上昇傾向が続き、氷点下10度以下は1986年1月7日の氷点下10.0℃を最後に観測されていない。日中は日照時間も多いために比較的気温が上がり温暖で、2月の平均最高気温は温暖な大阪市より高い。真冬日はほとんど観測されない。基本的に雪は少なく、冬型気圧配置下の降雪はほとんどない一方、稀に南岸低気圧による突発的大雪となることがあり、1998年1月15日には1894年から観測史上最深となる49cm、さらに2014年2月15日には最深積雪を大幅に更新する114cmの豪雪(これは1981年五六豪雪で記録した山形市の113cmを上回る記録)に見舞われた(平成26年豪雪)。

甲府(1981-2010)の気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
最高気温記録 °C (°F) 20.2
(68.4)
25.4
(77.7)
28.8
(83.8)
33.1
(91.6)
34.3
(93.7)
38.1
(100.6)
40.4
(104.7)
40.7
(105.3)
38.0
(100.4)
33.8
(92.8)
29.6
(85.3)
24.9
(76.8)
40.7
(105.3)
平均最高気温 °C (°F) 8.8
(47.8)
10.3
(50.5)
14.2
(57.6)
20.4
(68.7)
24.6
(76.3)
27.3
(81.1)
30.9
(87.6)
32.5
(90.5)
28.0
(82.4)
21.9
(71.4)
16.4
(61.5)
11.2
(52.2)
20.5
(68.9)
日平均気温 °C (°F) 2.8
(37)
4.3
(39.7)
8.0
(46.4)
13.8
(56.8)
18.3
(64.9)
21.9
(71.4)
25.5
(77.9)
26.6
(79.9)
22.8
(73)
16.5
(61.7)
10.4
(50.7)
5.0
(41)
14.7
(58.5)
平均最低気温 °C (°F) −2.4
(27.7)
−1.0
(30.2)
2.7
(36.9)
8.3
(46.9)
13.3
(55.9)
17.9
(64.2)
21.8
(71.2)
22.8
(73)
19.1
(66.4)
12.3
(54.1)
5.5
(41.9)
−0.2
(31.6)
10.0
(50)
最低気温記録 °C (°F) −19.5
(−3.1)
−17.2
(1)
−11.4
(11.5)
−4.6
(23.7)
−0.6
(30.9)
5.4
(41.7)
12.6
(54.7)
13.2
(55.8)
6.0
(42.8)
−1.8
(28.8)
−6.0
(21.2)
−11.7
(10.9)
−19.5
(−3.1)
降水量 mm (inch) 40.2
(1.583)
46.1
(1.815)
87.9
(3.461)
77.7
(3.059)
86.3
(3.398)
122.5
(4.823)
132.6
(5.22)
149.6
(5.89)
180.3
(7.098)
125.2
(4.929)
54.9
(2.161)
32.1
(1.264)
1,135.2
(44.693)
降雪量 cm (inch) 13
(5.1)
10
(3.9)
4
(1.6)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
1
(0.4)
29
(11.4)
平均月間日照時間 204.8 189.9 198.7 202.0 196.3 148.9 164.1 197.3 142.2 160.9 176.6 201.3 2,183
出典 1: 気象庁[3]
出典 2: 気象庁[4]
甲府(甲府地方気象台)1961 - 1990年平均の気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
平均最高気温 °C (°F) 8.4
(47.1)
9.6
(49.3)
13.5
(56.3)
19.8
(67.6)
24.2
(75.6)
26.6
(79.9)
30.1
(86.2)
31.7
(89.1)
27.0
(80.6)
21.1
(70)
16.0
(60.8)
10.7
(51.3)
19.9
(67.8)
日平均気温 °C (°F) 2.0
(35.6)
3.4
(38.1)
7.0
(44.6)
13.3
(55.9)
17.8
(64)
21.3
(70.3)
24.8
(76.6)
25.9
(78.6)
21.9
(71.4)
15.5
(59.9)
9.8
(49.6)
4.1
(39.4)
13.9
(57)
平均最低気温 °C (°F) −3.5
(25.7)
−2.0
(28.4)
1.4
(34.5)
7.8
(46)
12.3
(54.1)
17.2
(63)
21.3
(70.3)
22.0
(71.6)
18.1
(64.6)
11.0
(51.8)
4.5
(40.1)
−1.4
(29.5)
9.1
(48.4)
出典: 理科年表

歴史

先史時代の甲府市域

万寿森古墳
加牟那塚古墳

市域に旧石器時代の遺跡は見られないが[注釈 1]、相川河床からは県内で二例目となるナウマンゾウの臼歯化石が発見されている。

縄文時代の遺跡は荒川上流域にあたる市域北部の山間地域から中部の沖積低地にかけて散在し、同じく山間地である早川流域や芦川流域と共通した特徴を持つ。山梨県内においては縄文早期からの遺跡が盆地南部の曽根丘陵(旧中道町域)や八ヶ岳山麓など山麓、丘陵地域を中心に分布しており、丘陵地形の未発達な市域では縄文遺跡は少ないが、市域北部の山間部では早期からの遺跡や遺物が見られる。

市域南部の低地への本格的な定住は弥生時代以降であると考えられている。弥生中期の高町遺跡は同時期に特徴的な集落遺跡で、祭祀遺構や遺物、墓域などが見られず、短期間に存続した小規模な集落遺跡が分布する特徴を持ち、市域南部の低地へ進出した勢力の拠点集落であると考えられている。市域南部の低地は長年の洪水による土砂の堆積や市街化により遺跡分布の把握が不十分であるが、微高地上に立地する上石田の上石田遺跡は安定した定住痕跡が見られ、内陸部の河川・湖沼における漁業に用いられた土錘なども出土している。

弥生時代の遺跡では隣接する甲斐市大下条に弥生中期から後期の金の尾遺跡が所在し、山梨県内ではじめて発見された大規模弥生集落として知られる。甲府市域では把握が不十分であるものの弥生時代の遺構には乏しく、断片的に発見されている遺物が中心となっている。弥生後期では荒川扇状地の榎田遺跡が同時期の集落遺跡として知られ、住居跡や方形周溝墓などが検出されている。榎田遺跡の遺物は自然堤防や微高地上に分布し、東海系や北陸系などの様々な特色をもった土器が発見されていることから、複数経路で導入されたと考えられている。また、榎田遺跡からは水田跡などは検出されていないが、増坪遺跡から炭化米が発見されている。

甲府盆地における古墳文化の流入は東海地方経由での波及が考えられており、弥生以来の方形周溝墓群などが分布する盆地南部の曽根丘陵において定着した。古墳の築造は4世紀にはじまり曽根丘陵では有力首長層の古墳が出現し、4世紀後半には畿内のヤマト王権の影響を受けた前方後円墳である甲斐銚子塚古墳を最大に古墳中期まで栄えた中道勢力が台頭する。5世紀代に中道勢力が衰退すると古墳の築造は盆地各地へ広まり被葬者層も拡大し、6世紀代には市域を含む盆地北部など各地で中小規模の古墳が築造され、横穴式石室も出現する。

市域を含む盆地北部では出土遺物の特徴として、弥生以来の中央高地特有の土器と東海地方特有のS字かめの混在状態が見られ、市域東部の和田町・川田町では4世紀中半代の方形周溝墓が分布する桜井畑遺跡があるが、前期古墳は和戸町に所在していたという琵琶塚古墳が知られ、古墳時代は現存していないものの銅鏡の出土した前方後円墳である可能性が考えられてい。その他の前期古墳は乏しく、本格的な古墳の出現は古墳後期にはじまる。

6世紀には湯村の万寿森古墳笛吹市八代町の荘塚古墳とともに盆地最古の横穴式石室を持つ円墳として知られ、市域東部の里垣・甲運地区や西部の湯村・千塚など山麓地域を中心に中小規模の群集墳が分布している。この頃には盆地北西部において甲斐市竜王新町の赤坂台古墳群など盆地北西部勢力が台頭するが、千塚の加牟那塚古墳(かむなづかこふん)は盆地北西部勢力の盟主墳と考えられており、6世紀後半代の甲府盆地では盆地北西部勢力と笛吹市八代町の姥塚古墳を盟主墳とする八代勢力の対立構造が想定されている。

また、盆地北縁において活動した渡来人に関連する遺跡が分布しているが、市域では横根町から桜井町にけての横根・桜井積石塚古墳群が渡来人が群集墳であると考えられている。

古代の甲府市域

酒折宮

律令制下には巨麻郡山梨郡に属する。古代甲斐国の有力豪族は早くから畿内王権と関わりをもち、甲府盆地東部では仏教文化を導入し、寺本廃寺(笛吹市)など古代寺院が建立されているが、甲府市域には川田町の川田瓦窯跡や桜井町の上土器遺跡など近隣の森林資源を活かした土器や瓦を生産していた施設があり、甲斐国分寺をはじめ盆地東部の古代寺院へ屋根瓦が供給されていたと考えられている。

また、市域にも和戸町の桜井畑遺跡には8〜9世紀の小規模寺院跡が発見されており、盆地西部へも仏教文化が浸透していた。また、霊山として知られる市域北端の金峰山には山岳信仰を示す信仰遺跡があり、平安時代中期には末法思想の影響から上積翠寺町の一の森山頂などで経塚造営が行われた。

中世の甲府市域と武田城下町の成立

平安時代後期には常陸国から配流された源清光の子孫が甲斐盆地各地に進出し、その一族は甲斐源氏として発展する。市域では板垣郷に拠った板垣氏や一条郷に拠った甲斐一条氏、飯田氏、塩辺氏、小松氏らが勢力基盤とした。一条氏や板垣氏ら甲斐源氏の一族が治承4年(1180年)には源頼朝の挙兵に呼応して活躍するが、頼朝によって排斥されて勢力は衰亡する。

また、平安後期には盆地各地で荘園が成立し、甲府市小瀬町周辺に成立した稲積荘には、甲斐源氏の一族である加賀美氏小笠原氏らが進出する。中世には市域南部の低湿地の開発が進んだ。

戦国時代には甲斐一国ら乱国状態となるが、守護武田氏による国内統一が進められ、武田信昌は甲府市川田町に川田館を構え、笛吹川旧流路を挟んで対岸の笛吹市石和町市部には石和宿が存在していた。

甲府市岩窪町の河尻塚

永正16年(1519年)には武田信虎が古府中に躑躅ケ崎館を築き、家臣団を集住させて新たに城下町が形成された。古府中は信虎・晴信(信玄)・勝頼と3代にわたり、戦国大名化した武田氏の領国支配の本拠地となる。また、永正17年(1520年)に信虎は躑躅ヶ崎館の詰城として要害山城を築城している。

永正18年(1521年)2月には駿河国今川氏の家臣である福島正成駿州往還から甲斐へ侵攻する福島乱入事件が発生する。福島勢は南アルプス市戸田の富田城を落すと甲府へ侵攻する。信虎は10月16日に荒川沿いの甲府市飯田町一帯にあたる飯田河原の戦いで福島勢を撃退すると、さらに11月23日には甲斐市島上条の上条河原の戦いで福島勢を破り、甲斐から駆逐する。なお、福島勢の甲府侵攻に際して信虎は正室の大井夫人を要害山城へ退避させ、同年11月3日に要害山城で嫡男・晴信(信玄)が生まれている。

天正9年(1581年)には武田勝頼が巨摩郡穴山郷(韮崎市中田町中條)に新府城を築き府中移転を試みるが、天正10年(1582年)3月の織田・徳川連合軍の武田領侵攻により武田氏は滅亡する。武田氏の滅亡後、甲斐一国と信濃諏訪郡は織田家臣の河尻秀隆が統治し、秀隆は甲斐統治の本拠を岩窪館(甲府市岩窪町)に置いた。

同年6月の本能寺の変により発生した一揆により秀隆は横死し、武田遺領を巡る天正壬午の乱が発生する。天正壬午の乱では三河国の徳川家康相模国北条氏直が甲斐へ侵攻し、家康ははじめ甲府市城東の尊躰寺・甲府市北新の一条信龍屋敷に本拠を起き、のち新府城に本拠を移し、八ヶ岳南麓・七里岩台上で後北条氏と対峙した。同年10月に徳川・北条同盟が成立すると、後北条氏は甲斐から撤兵し、甲斐は徳川家康が領した。

甲府城下町と近世の市域

歌川広重 不二三十六景より
甲斐八景とも呼ばれた夢山(夢見山)よりみた富士山や甲府城が描かれている

一条小山の甲府城築城は徳川氏の関東転封に伴い、豊臣氏の大名である加藤氏浅野氏等に引き継がれる。甲府城は慶長5年(1600年)に完成し、城下町も建設されて新府中(下府中)が形成され、内郭部には武家が集住し、外郭部には町人地となる。古府中(上府中、元府中)には商人町や職人町となる。甲府城下町は上府中26町、下府中23町で構成され、中心は人口の集中する下府中であった。町政は町奉行のもと、町人を代評する町年寄にあたる検断が町政運営を担い、各町を代表する長人(名主)がその指揮に従った。

江戸時代には徳川家康の9男徳川義直徳川家光の弟の徳川忠長、家光の三男の徳川綱重、六代将軍となる徳川家宣等徳川氏の一族が領主となった。例外として五代将軍徳川綱吉側用人である柳沢吉保吉里父子が領主となった。甲府は各支配者により整備され城下町として発展するが、享保9年に将軍吉宗の主導する享保の改革の一環として甲斐一国の幕府直轄領化が実施され、甲府勤番城の守護と城下の政務を担うと、武家人口の低下や在方経済の伸長の影響を受けて、江戸中期には甲府の人口は減少している。

近世後期には城下の大通りを幕絵で飾る甲府道祖神祭礼が開始され、歌川広重をはじめとする人気浮世絵師が幕絵を手がけた。

近現代の市域

昭和初期の甲府市全景[5]
藤村紫朗
甲府市の夜景千代田湖方面より望む。(2010年1月)

明治には初代公選知事として赴任した藤村紫朗が、殖産興業と並行して甲府市街の開発を行い、勧業製糸場をはじめ「藤村式建築」と呼ばれる擬洋風建築で統一された諸施設が整備された。

1945年(昭和20年)7月7日には甲府空襲たなばた空襲)に見舞われたが、戦後には市域へも工業団地の造成が進み、高度経済成長期には機械工業都市としても発展する。また、交通機関の整備により観光が主要産業となり、自然や歴史的資源など観光資源に着目した町づくりを行っている。

沿革