かなざわし
金沢市
金沢城址 兼六園 近江町市場 ひがし茶屋街 金沢市街 尾山神社
金沢市旗 金沢市章
金沢市旗 金沢市章
1891年3月7日制定
日本の旗 日本
地方 中部地方北陸地方
都道府県 石川県
団体コード 17201-4
法人番号 4000020172014
面積 468.64km2
総人口 464,263[編集]
推計人口、2019年6月1日)
人口密度 991人/km2
隣接自治体 白山市野々市市河北郡津幡町内灘町
富山県小矢部市南砺市
市の木
市の花 花菖蒲
サルビア
四季咲きベゴニア
インパチェンス
ゼラニウム
(全て推奨花)
金沢市役所
市長 山野之義
所在地 920-8577
石川県金沢市広坂一丁目1番1号
北緯36度33分39.8秒東経136度39分23.4秒座標: 北緯36度33分39.8秒 東経136度39分23.4秒
金沢市役所
外部リンク 公式ウェブサイト

金沢市位置図

― 市 / ― 町

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金沢市中心市街地

金沢市(かなざわし)は、石川県のほぼ中央に位置する、石川県の県庁所在地である。旧石川郡および河北郡1996年4月1日中核市に指定された。

概要

江戸時代には、江戸幕府(約800万と言われる)を除いて、大名中最大の102万5千石の石高を領した加賀藩(「加賀百万石」)の城下町として栄え、人口規模では江戸大坂三都に次ぎ、名古屋と並ぶ大都市であった。第二次世界大戦中にアメリカ軍からの空襲を受けなかったことから市街地に歴史的風情が今なお残っている。空襲の被害者やその遺族が少ない地域という理由から、終戦間もない頃には国際交流を目的として来日するアメリカ市民の滞在先としても選ばれた。また、長年の都市文化に裏打ちされた数々の伝統工芸日本三名園の一つとして知られる兼六園加賀藩の藩祖・前田利家の金沢入城に因んだ百万石まつり、さらに庶民文化(加賀宝生郷土料理治部煮等)などにより、観光都市として知られる。2009年にはユネスコ創造都市に認定された(国内では神戸市、名古屋市に続く3番目、クラフト&フォークアート部門ではアジア初)。また、北陸地方を管轄する国の出先機関が置かれ、大企業の「北陸支社」「北陸支店」も金沢市に置かれることが多いため、政治・経済において北陸地方の中心的な都市としての機能も担っている。

地理

金沢市中心部の空中写真。南東から北西方向へ犀川浅野川が流れる。1975年撮影の10枚を合成作成。国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成。
田上地区にあった旧浅川村役場跡(金沢市浅川出張所、1984年当時)

地理区分

地理区分は中部地方北陸地方北信越地方に属する。石川県内の地理区分では、加賀地方に属する。

地形

南東部は山地で、奈良岳(1,644m、金沢市の最高峰、犀川の水源)をはじめ、見越山 (1,621m)、大門山 (1,572m)、医王山(いおうぜん、939m)などがある。平野に近い部分は丘陵地となり、戸室山 (548m)、キゴ山 (546m)、野田山 (180m)、満願寺山 (177m)、卯辰山 (141m) などがある。戸室山・キゴ山は数十万年に形成された第四紀火山である。山地と平野の境界付近に森本・富樫断層帯が分布する。北西部は金沢平野で、犀川(別名おとこ川)、浅野川(別名おんな川)、金腐川(かなくさりがわ)、森下川(もりもとがわ)、伏見川高橋川内川などが流れる。犀川とこれに合流する伏見川は日本海へ直接注ぐが、他の川は河北潟へ流れ、大野川を経て日本海へ注ぐ。海岸部は砂丘となっており、河口部分は北向きに曲がっている。犀川上流には犀川ダム内川ダムがあり、上水道や灌漑などに利用されている。犀川と浅野川は市内を並行して流れ、犀川北岸と浅野川南岸それぞれの河岸段丘に挟まれた台地小立野台地である。小立野台地の西端に金沢城趾兼六園がある。また、犀川南岸の河岸段丘は寺町台地と呼ばれる。

気候

日本海側気候で、年中湿度が高く、雲が発生しやすい。特に冬には雨・雪が降る日が多い[注釈 1]。平年の雷日数が全国の県庁所在地の中で最も多く、そのほとんどは晩秋から冬に起こる。比較的好天が多いのは4-5月と10月、夏にはフェーン現象が起きて最高気温が35℃を超えることもある。梅雨の影響は太平洋側と比較して少ない。台風が直撃することもあまりない。12月から2月にかけてはが多い。雷を伴ってあられや雹が降ることもある。1987年以降の暖冬に加え、1991年10月23日に金沢地方気象台が中心部にほど近い弥生地区から、海風の影響で気温が高めで雪が積もりにくい沿岸寄りの西念地区へ移転して以降、観測される降雪量は急激に減っており、北陸の他都市はおろか鳥取市よりも積雪量が少なくなることが増えた。しかしながら、市の公表している積雪量[1] によると、気象台よりも兼六園のある市内中心部の方が積雪が多く、特に、金沢大学のある角間町などの内陸地域などは豪雪となりやすい。このように同じ市内であっても海側と内陸では積雪量が大きく異なっている。

降雪の深さ合計は平年で278cmと前平年値(1971〜2000年平均)の360cmと比べて大きく減少した。気象台移転後の最深積雪記録は2001年1月16日の88cm、なお金沢地方気象台が現在の場所に移転する前の最深積雪極値は三八豪雪の1963年1月27日に記録した181cm。最後に積雪が1mを超えたのは1986年1月28日の113cmまで遡る。ただし、冬季の気温は曇りや雪の日が多く放射冷却が少ないため、最低気温は高め(1月平均最低気温0.9℃)であり、2000年代以降は暖冬傾向であること、また、除雪融雪の体制が発達していることなどから、冬季の都市生活に支障は少ない。

湿度が高いため、伝統工芸の漆塗りや金箔製造に適している。

金沢地方気象台(西念町)1981–2010年平均の気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
最高気温記録 °C (°F) 21.2
(70.2)
23.6
(74.5)
27.0
(80.6)
31.6
(88.9)
33.7
(92.7)
36.1
(97)
37.3
(99.1)
38.0
(100.4)
38.5
(101.3)
33.1
(91.6)
28.4
(83.1)
24.7
(76.5)
38.5
(101.3)
平均最高気温 °C (°F) 6.8
(44.2)
7.3
(45.1)
11.0
(51.8)
16.9
(62.4)
21.6
(70.9)
25.0
(77)
28.8
(83.8)
30.9
(87.6)
26.6
(79.9)
21.3
(70.3)
15.5
(59.9)
10.2
(50.4)
18.5
(65.3)
日平均気温 °C (°F) 3.8
(38.8)
3.9
(39)
6.9
(44.4)
12.5
(54.5)
17.1
(62.8)
21.2
(70.2)
25.3
(77.5)
27.0
(80.6)
22.7
(72.9)
17.1
(62.8)
11.5
(52.7)
6.7
(44.1)
14.6
(58.3)
平均最低気温 °C (°F) 0.9
(33.6)
0.7
(33.3)
3.0
(37.4)
8.2
(46.8)
13.1
(55.6)
18.0
(64.4)
22.3
(72.1)
23.7
(74.7)
19.5
(67.1)
13.3
(55.9)
7.7
(45.9)
3.4
(38.1)
11.2
(52.2)
最低気温記録 °C (°F) −9.7
(14.5)
−9.4
(15.1)
−8.3
(17.1)
−1.6
(29.1)
1.5
(34.7)
6.8
(44.2)
11.0
(51.8)
13.1
(55.6)
7.6
(45.7)
2.2
(36)
−0.7
(30.7)
−6.7
(19.9)
−9.7
(14.5)
降水量 mm (inch) 269.6
(10.614)
171.9
(6.768)
159.2
(6.268)
136.9
(5.39)
155.2
(6.11)
185.1
(7.287)
231.9
(9.13)
139.2
(5.48)
225.5
(8.878)
177.4
(6.984)
264.9
(10.429)
282.1
(11.106)
2,398.9
(94.444)
降雪量 cm (inch) 119
(46.9)
93
(36.6)
27
(10.6)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
2
(0.8)
37
(14.6)
281
(110.6)
平均降水日数 (≥ 0.5 mm) 24.7 20.7 18.4 13.0 11.7 11.9 14.3 9.8 13.0 14.8 18.1 23.3 193.7
平均降雪日数 19.1 16.0 8.1 0.6 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 1.0 9.8 54.6
湿度 75 72 67 69 75 77 73 74 71 71 72 72 72.3
平均月間日照時間 63.5 84.1 141.3 185.5 202.3 152.6 158.9 221.5 144.1 150.4 104.1 72.5 1,680.8
出典: 気象庁
金沢市
雨温図説明
123456789101112
 
 
266
 
7
1
 
 
184
 
7
1
 
 
153
 
11
3
 
 
144
 
17
8
 
 
154
 
21
13
 
 
194
 
25
18
 
 
227
 
29
22
 
 
164
 
30
23
 
 
242
 
26
19
 
 
188
 
21
13
 
 
267
 
15
7
 
 
287
 
10
3
気温(°C
総降水量(mm)
出典:気象庁

隣接自治体

北側に内灘町津幡町、東側に倶利伽羅峠医王山などの山地を挟んで富山県小矢部市南砺市、南側に白山市(旧松任市、旧鶴来町)、野々市市と接する。

歴史

第二次世界大戦以前

「金沢」という都市名は「昔、山科の地(現:金沢市郊外)に住んでいた芋掘り藤五郎が山芋を洗っていたところ、砂金が出たため、金洗いの沢と呼ばれた」という伝説による。

金洗いの沢」は、兼六園内の金沢神社の隣りにあり、現在は「金城霊沢」と呼ばれている。

古文書における「金沢」の初見は、『高野山正智院聖教目録』に文明13年10月8日(1481年10月30日)付で記載された「加州金沢惣持寺」が知られている[3]

天文15年(1546年)。戦国時代一向一揆本願寺の拠点が置かれた尾山御坊(金沢御坊)と、その周辺の寺内町を起源とする。天正8年(1580年)、織田信長配下の柴田勝家の甥佐久間盛政が尾山御坊を攻め落とし、その地に金沢城を築城した。

賤ヶ岳の戦い以降、前田利家が金沢城に入り、加賀藩の原型が形成された。利家は金沢城を人心の一新(羽柴秀吉に敵対した佐久間盛政色の一掃および一向一揆に加わっていた真宗門徒との融和)を意図して自身の出身地である尾張国にも通じる「尾山城」と改名するが定着せず、利家の晩年もしくは次代の前田利長の時代には再び「金沢城」の名前に戻した[4][5]。城下町には二重の惣構が掘られ、環濠都市となり、現在でもその遺構を確認することができる。それまで点在していた寺院は一向一揆を防ぐために、金沢城から南西の犀川流域、東側の卯辰山、南東の小立野台地の三ヶ所に集められ、それぞれが寺町寺院群卯辰山山麓寺院群小立野寺院群となった。

玉泉院丸庭園
玉泉院丸庭園

慶長5年(1599年)に利家が死去すると、翌年には関ヶ原の戦いが起こる。利家の遺領を相続した長男の前田利長は、東軍の徳川家康につき、西軍に属した弟の前田利政の所領を戦後に与えられ、加賀国能登国越中国を有する大大名となる。第三代藩主前田利常の時代には、十村制改作法といった農政改革を進め、支配機構の整備が行われ藩体制が確立した。第五代藩主前田綱紀は名君として名高く、兼六園の前身にあたる蓮池庭(れんちてい)を作庭し、木下順庵室鳩巣稲生若水といった学者の招聘につとめ学問を振興した。また綱紀は和書や漢書、洋書などの多様な書物の収集にも努め、その書物の豊富さから新井白石は「加賀は天下の書府」と言ったと伝えられている[6]。集められた書物や美術工芸品の収蔵品は尊経閣文庫と呼ばれ、現在では前田育徳会により保存管理されている。その後金沢は150余年に渡り、加賀百万石の城下町として繁栄することとなる。参勤交代の時、前田氏は約2,000人の家来を従え、現在の価値で片道約7億円をかけて江戸との間を往来した。

以下江戸時代の藩政史料や地図、明治初期の統計書に記録されている金沢町の人口をまとめる。但しその多くが町奉行支配場(本町、地子町、旧門前地、大工地)の町方人口に関するものであり、主に寺社奉行支配地(門前地)に居住した僧侶・神職ほか、武家屋敷や一部町方・寺社方に居住した士分・武家奉公人については人口に関する資料がほとんど残っていない。

江戸時代から明治初期の金沢の人口[7][8][9][10]
元号 西暦 家数 人口 備考 典拠
寛文4年 1664年 9,868 55,106 本町2532戸1万9845人、地子町7336戸3万5261人 『越登賀三州志』
寛文5年 1665年 7,350 地子町のみ 『改作所旧記』
寛文7年6月 1667年 8,667 59,101 本町1332軒1万9840人、地子町7335軒3万9261人 『稿本金沢市史』
延宝年中 1675年頃 9,927 本町2186軒、地子町7081軒 『金沢古蹟志』
3,959 武家屋敷分。士分1677軒、足軽1953軒、小者305軒 『延宝金沢図』
貞享2年 1685年 8,448 地子町のみ 『国事雑抄』
貞享3年 1686年 8,326 地子町のみ 『国事雑抄』
元禄3年 1690年 13,601 寺社奉行支配地を含む。寺社243戸、山伏65戸、
百姓85戸、非人4戸、穢多4戸、町其外遊民1万3209戸
『加賀藩史料』
17,601 金府家数凡1万3601戸、外に士家奉公人分家4000戸の合計
元禄9年 1696年 11,927 本町2536戸、地子町9391戸 『金沢古蹟志』
元禄10年春 1697年 12,085 68,636 本町2285戸1万8949人、旧門前地大工地354戸2630人、
地子町9446戸4万7057人
『加賀藩史料』
宝永7年6月21日 1710年 12,558 64,987 『国事雑抄』
宝暦5年 1755年 13,443 外に侍屋敷1365軒(但し知行持のみ) 『稿本金沢市史』
文化7年8月 1810年 13,792 56,355 本町2540戸、旧門前地384戸、地子町1万0754戸、大工胆煎等114戸 『越登賀三州志』
14,909 町奉行支配地1万3792戸、寺社奉行支配地1117戸の合計
文化8年 1811年 11,070 本町2112戸、地子町8958戸。
但し本町4胆煎、地子町3胆煎分戸数不足
『城下町金沢』
天保9年閏4月 1838年 15,273 35,841 町方・寺社方合計、人口は15歳以上のみ 『金沢町数人口調』
安政4年2月 1857年 13,485 58,506 町方・寺社方合計、他支配2186軒を除く。
本町2650軒1万2019人、地子町9478軒4万0803人、門前地1351軒5684人
『金沢町家数人数高』
15,671 町方・寺社方合計、他支配2186軒を含む。
本町2784軒、地子町1万1281軒、門前地大工地1600軒
文久3年5月以降 1863年 15,720 町方・寺社方合計、他支配を含む。
本町3049軒、地子町1万1342軒、大工胆煎等127軒、門前地1202軒
『町役人名帳』
明治2年8月 1869年 15,715 1胆煎分戸数不足 『町役人名帳』
13,562 60,789 町方・寺社方合計、支配違2634軒を除く 『金沢町家教調』
16,196 町方・寺社方合計、支配違2634軒を含む
明治3年閏10月10日 1870年 17,222 56,295 居住制限撤廃後、家数は集計不完全、人口は町方人別之者のみ。
東郷3253軒1万2093人、西郷2263軒7943人、
南郷6600軒1万8960人、北郷5106軒1万7294人
『稿本金沢市史』
明治4年2月 1871年 24,744 123,363 全身分合計。士族4932戸2万6028人、
卒4607戸2万6888人、平民1万4907戸6万8810人、
元神官39戸139人、寺院259戸1032人、御預人466人
『金沢名数』
明治4年8月 24,146 123,453 第1区3253戸、第2区3635戸、
第3区882戸、第4区1836戸、第5区4068戸、第6区3369戸、第7区4103戸
『石川県史料』
明治5年1月29日 1872年 37,880 壬申戸籍による本籍戸数・人口。第1区5610戸、第2区5411戸、
第3区6026戸、第4区2717戸、第5区6272戸、第6区5080戸、第7区6763戸
『石川県史料』
明治6年1月1日 1873年 35,788 109,685 本籍戸数・人口[注釈 2] 『金沢市統計書』
34,580 『日本地誌提要』
34,883 『明治八年共武政表』
明治9年11月1日 1876年 23,995 108,758 本籍家数・人口 『石川県史料』
明治11年12月9日 1878年 23,937 108,263 本籍家数・人口 『石川県史料』
明治12年1月1日 1879年 23,915 107,878 本籍家数・人口 『明治十一年共武政表』
107,876 本籍人口 『日本全国郡区分人口表』

「今津甚四郎書出候人数一巻」[11] によると、享保6年(1721年)の金沢藩の15歳以上の御家中人口は6万7302人(おそらく武家奉公人を含む)。また『金沢市史』や『藩制一覧』によると、明治3年閏10月10日の旧家中人口は、華族1戸11人、士7797戸2万8683人、卒9703戸2万7038人、仲間・小者(平民扱い)2699戸5938人の合計20,200戸61,670人(但し戸数は成人男性数(名数))。江戸時代中期以降、金沢城下町に居住する武家・武家奉公人人口は4万人から5万人で推移したと推測される。以下に2人の研究者による江戸時代から明治初期の金沢の推定総人口を列挙する。なお土屋敦夫の推計人口には神社仏閣数と僧侶・神官人口(明治4年2月の時点で298箇所1171人)が加算されていない[7]。また斎藤誠治が明治11年調として『明治十一年共武政表』より引用している人口は、正確には明治12年1月1日調のものである[12]

江戸時代から明治初期の金沢の推計総人口
年号 西暦 土屋敦夫 (1980)[7][8] 斎藤誠治
(1984)

[12]

城下町
合計
武士町
居住
町人町
居住
慶安3年 1650年 114,000
寛文4年 1664年 86,300 31,200 55,100
貞享2年 1685年 62,200
元禄10年 1697年 111,200 42,600 68,600
宝永7年 1710年 70,600
寛延3年 1750年 128,000
宝暦5年 1755年 116,600 44,900 71,700
文化7年 1810年 68,900
文政4年 1821年 114,600 46,500 68,100
天保9年 1838年 73,500
嘉永3年 1850年 118,000
文久3年 1863年 73,600
明治4年 1871年 122,900 48,100 74,800
明治11年 1878年 107,878

江戸時代の金沢の人口は17世紀後半には10万人を超え、江戸、大坂、京の三都には及ばないものの、名古屋と並ぶ日本第4位から第5位の都市として発達し、美術工芸など現在に受け継がれる都市文化が花開いた。幕末から明治維新の頃の金沢は人口において東京、大阪、京都、名古屋に次ぐ日本第5位の都市であったが、明治時代に入ると産業・交通発達の基軸が太平洋側へと移り、明治20年頃には六大都市を形成することになる神戸横浜にも人口で抜かれる。しかしながら金沢には旧制第四高等学校金沢大学の前身)や日露戦争旅順攻囲戦で知られる陸軍第九師団が置かれ、学都・軍都として栄えた。

第二次世界大戦中は機銃掃射など(金沢空襲)があったものの大規模空襲を免れ、古い町並みが残った。(石川県内では、空襲で60人以上が死傷した。)

地名の移り変わり

現在の金沢市中心部は、古くは石浦村と呼ばれていた。尾山御坊が置かれたことで寺内町として発展し、南町、西町、松原町、安江町、近江町、堤町、金屋町、材木町といった町が成立した。これを総じて尾山八町、或いは単に「尾山」と呼んだ。なお、尾山という地名は、「二つの川に挟まれた台地の先端」という意味を持つ。後に、前述の芋掘り藤五郎の伝説から「金沢」と称するようになるが、こちらの地名も室町時代まで遡ることが確認されており2つの地名が併用されていた。前田利家が城主になると一度「尾山」に戻され、家督を長男の前田利長が継いだ後に再び「金沢」となった。

旧町名の復活運動

金沢市は、1962年(昭和37年)に「住居表示に関する法律」の実験都市に指定され、500余りの町名が消滅してしまった。しかし、長年慣れ親しんだ旧町名の復活を望む声が多く、主計町を皮切りに次々と旧町名が復活した。これを受けて長崎市など全国へ旧町名復活運動が広がっていった。

沿革